スーツ
45万円以上するオーダースーツを、1年半近く待っても買いたい理由。
2017.12.19
フィレンツェに立った日本人サルト
甲 祐輔(かぶと・ゆうすけ)に会ったのは2010年夏、ピッティ・ウォモ取材で訪れていたフィレンツェ。友人が現地在住の日本人に一着オーダーしているという。興味があったので、仮縫い先のホテルに顔を出したのが初対面だった。
当時の彼はイタリアの大手アパレルのビスポーク部門に勤めながら、友人・知人の紹介経由で注文が集まる腕のいいテーラーであった。聞けば、フィレンツェの名店の工房出身だという。細身のジーンズにポロシャツ一枚の素朴な甲が縫いかけのジャケットを取り出したとき、瞬時に一着依頼してみようと思ったことを覚えている。
日本人の体形は欧米人のそれとは異なり、肩がきゃしゃで背中が丸い。以前ナポリのサルトで仕立てた一着が、なんとも不思議なフォルムで仕上がってきて、なるほど自分のような日本人の体形を採寸し慣れていないのだなと合点していた。
日本人の甲ならば、日本人の体形特性はわかっているのだろう。それに万が一も仮縫い時、不満な箇所を日本語で細かに説明できる。共通の知人が多いこともあり、多少の無理も利くはずだ。しかしそれより何より、いま目の前で着付けたそのジャケットからは、ひと目でわかる手のよさがうかがえる。フィッティングをチェックする彼が、ポケットから取り出した日本製のデジカメで細かく各部を撮影し、メモを取る様子に真面目な仕事ぶりがうかがえた。手縫いの運針はとても丁寧で、しつけ糸を抜けば、その場で納品できるかのような未完成品だった。
「今日は仮縫いに来ただけなので、生地のサンプルをお持ちしていないんです」という甲に、無理に採寸を依頼して、「春夏用の紺無地スーツ」とだけ申し伝えた。色柄は後日メールでやりとりすることにしていたが、モニターでは正確な情報は伝わらない。柄物の微妙な発色の確認は危険と思い、無難な無地を選んだのだが、後日もっと彼を信用すればよかったと少しだけ後悔した。
初対面のサルトにフルオーダーのスーツを衝動買いとは自分でもアホだと思うが、ピッティ詣でついでに散財してくるのはいつものことなので、いつかはこういうこともあるだろうと思ってはいた。だがそれはおそらく高名なイタリア人のテーラーで、取材ついでに意気投合し「安くしておくよ」「こりゃラッキー」という流れだろうと思っていた。
半年後、季節が反転したフィレンツェで再開した甲が持ってきた仮縫いスーツは、深い海のように美しい紺色のモヘア混で、袖を通すと見事なまでに私の体に吸い付いた。文句の付けどころはなく、このまま進めてくださいと言うと、彼はまだ満足いかない箇所があると、ポケットから半年前と同じ日本製のデジカメを取り出した。
仮縫いの儀式のあと、私たちは甲の行きつけのリストランテで食事をし、古い友人のように服飾話に花を咲かせた。ほろ酔いで店を出たあと、フィレンツェの郊外に住んでいるという彼が、市バスも終わったこんな時間にどうやって帰ったのかは定かでない。
さらに半年後、初めて会ったときと同じ季節に完成品がブラッシュアップされていたことは言うまでもない。名店の工房にいた彼の手腕は、確かに胸まわりのフォルムにそれがうかがえた。
だがいわゆるフローレンススタイルのカッティングではなく、かといって日本のテーラーがやりがちな型通りの箱タイプでもない。どこかナポリ的と思えたのは、彼がそのとき、すでにもう独立したテーラーとしての覚悟を抱いていたからかもしれない。まだテーラーとしては駆け出しだった彼の作品には、すでに「cavuto」と現行のブランドタグと同じ書体で描かれたラベルが縫い付けられていた。
Text:Yasuyuki Ikeda(04)
Photograph:Hiroyuki Matsuzaki(INTO THE LIGHT)
プロフィル
池田保行(いけだ・やすゆき)
服飾エディター&ライター。出版社勤務を経てフリーに。メンズファッション各誌、広告メディアの編集・執筆に携わる。国内外でのウェルドレッサーをはじめ、デザイナー、ファクトリー、テーラー、ショップの取材記事多数。
<INFORMATION>
サルトリア カブト
石川県七尾市木町19-1
cavutosartoria@gmail.com