旅と暮らし
自信を持って目上の方を誘える
凜とした和食店「妻恋坂 けい吾」
[状況別、相手の心をつかむサクセスレストラン Vol.11]
2019.04.16
きちんとした和食が1万円のコースで食べられる店は、このご時世とても貴重だ。目上の方を接待するともなれば、カジュアルでざっくばらんにというわけにはいかない。日本料理を所望されることも多いだろう。先方が経験豊かな食通でも、自信を持って接待できる、しかもリーズナブルな価格で。そんな店に案内できれば、「お、いい店知っているな、なかなかできるやつだ」と感心されるに違いない。こうなれば接待はほぼ成功したも同然だ。
店の名は「妻恋坂 けい吾」。なんとも雰囲気がある名前だが、実は、千代田線の湯島の駅から神田方向に徒歩6〜7分、妻恋坂の手前に位置している。店名は店主・阿部圭吾さんの名前に由来する。
店主の美意識の行き届いた店内とこだわりのコース料理
さて、引き戸を開ければ、ゆったりとした幅広のカウンター、重ねられた特注の折敷、名栗の壁面……、すみずみにまで目が行き届き、おいしいものを食べさせてくれそうという雰囲気に満ちている。阿部さんは、いまはなき西麻布の「二戀(にこ)」で和食を基礎から学んだのち、どうしてもそば打ちを習得したいと、鬼才と言われた神保町の「松翁」に改めて弟子入りした。その後、女将と二人で切り盛りする、おまかせのみの割烹を始めたという。
コースの構成は、価格に応じて季節の料理やお造りを数品楽しんだあと、おしのぎに温かい十割そばと一口寿司をはさみ、メインディッシュは季節の食材を天ぷらにして供し、最後はどちらも手打ちの冷や麦とそばで締めくくる。いわゆる定型の和食の流れとは異なり、芝居が場面転換するように一品一品がらりと異なる、和食のいいとこどりをしたようなコースの構成に心が弾む。
瞬時に心つかまれる、コース料理の始まり
8500円のコースの内容を説明しよう。一品目の座付きは、「青豆豆腐の揚げ出し 新玉ねぎのすり流し」。わらびや木の芽を添え、春のすがすがしい息吹を伝える一品だ。青豆豆腐とは、蒸したグリーンピースにだしや葛粉を加えて練り上げ、冷やし固めたものを油で揚げる。それに、炭火で焼いて甘みを増した新玉ねぎのすり流しを合わせるという、手の込んだ一品だ。こうした、季節感を感じさせる爽やかな一品がスターターであれば、店への期待がぐっと高まる。
二品目は旬の魚介と野菜を合わせた小鉢。赤貝、たんぽぽ、黄にらを ぴりっと辛みのある自家製の南蛮酢みそで和え、春先だけのつまもの、花柚子を添えている。目にあでやかなばかりでなく、口に含めば赤貝の磯の風味とたんぽぽのほろ苦みと、黄にら独特のくせを南蛮酢みそが見事にまとめてくれる。
次におしのぎとして、白板昆布で巻いたかんぬき(大きなさより)の花見寿司と温かな十割そばが一緒に供される。桜の花をあしらった盛り付けに、なんとも風雅な気分になる。温かなそばつゆと寿司を交互に食べれば、いささか気負っていた心も胃もふっと落ち着く。
主菜の天ぷらから締めのそばまでの満足度の高さはピカイチ
そして、次の皿で天ぷらが供されるという構成も、意外性がある。目の前で揚げた熱々を、ハフハフとほお張る楽しさといったらない。しかも専門店にはない、洒脱な素材の取り合わせや季節感が心憎い。
今日のたねは、新じゃがと自家製からすみの取り合わせだ。濡らした新聞紙とアルミホイルでくるみ、炭火で中まで火を通した新じゃがを丸ごと天ぷらにし、一口大に切ってからすみと合わせるという、けれんみたっぷりの一品。もうひとつは金針菜を串に刺してさっと揚げたもの。独特の歯ごたえとミネラル感のある青さが美味だ。塩少量をつけて素材の味わいをダイレクトに味わいたい。このほかに、二台の生けすで温度管理している車海老と穴子の天ぷらは、通年供される。
コースの締めはまず冷や麦、続いてそばが出される。締めがそばの店も少なくないが、知る限り、2種の麺類を手打ちで出すというところはない。「自分の、こんな店があったらいいなという思いを形にしました」と阿部さん。麺類へはひとかたならぬ思い入れがある。なにしろ、2種類のそば粉を自家製粉するために、地下に部屋のある物件を借りたというほどだ。
玄そばの殻を取った丸抜きを、毎日石臼で製粉する。そして挽き立てをつなぎなしの十割で手打ちする。「十割そばは黒く、太く、短く、喉越しが悪いという先入観を取り払いたいと、細くて喉越しがいい十割蕎麦を目指して、日々、精進しています」とも。静岡県御殿場のわさびと、真空切りした長ねぎを添えるなど、薬味にもこだわりが。
そばつゆは小豆島から取り寄せたしょうゆ、三河みりん、砂糖で作った“かえし”に3種類の昆布、かつお節、さば節、どんこ椎茸で取っただしを合わせ、まろやかながらキリッと一本筋の通った、「妻恋坂 けい吾」らしい味に仕上げている。二種類の麺の異なる食感との喉ごしが、満たされた心にさらなる満足をもたらす。
女将と二人三脚のもてなしの心が光る
これだけのこだわりを持ち、手間隙をかけながらも、低価格に抑えているのは、「おいしい日本料理が、一部の人のためだけのものになってほしくないから」という阿部さんの切なる願いから。そのコスパを実現するために、女将である奥さまと二人だけで切り盛りしている。
心地よい距離を保って接する阿部さんのおもてなし、そして、美人女将の楚々(そそ)とした接客も、この店の大きな魅力である。好きな蔵元を選び抜いているという、主自慢の日本酒を酌み交しながらじっくり話せば、商談もきっとうまくいくに違いない。
Photograph : Makiko Doi