週末の過ごし方

『ザ・ファットダック』の卓上の旅。
山本益博

2022.05.02

ロンドンっ子が誘う、ひと皿から始まる旅

ロンドンっ子のオーナーシェフのヘストン・ブルメンタールは、15 歳の誕生日に両親に連れられ、フランスのプロヴァンスにある三つ星レストランで食事し、料理に感動し、料理人を志すきっかけになった。だが、レストランに就職したものの、「野菜をゆでるのに、どうして塩を入れるのか?」「デザートのスフレはなぜ膨らむのか?」という疑問を厨房の誰もが答えてくれなかった。彼は、間もなくレストランをやめ、ハロルド・マギーの『キッチンサイエンス』などの料理書を読みあさり、独学で料理の勉強をした。そうして、伝手を頼ってブリストル大学の物理学の教授に会い、「塩をする、加熱する」料理理論を展開したところ、教授は「君の言うとおりだよ。もし、君がレストランを開いたら、私たちのチームが応援しよう」と言ってくれたという。ロンドン郊外のパブを改造した一軒家のレストランには、当初「ブリストル大学」の物理学のメンバーが常駐していた。

『ザ・ファットダック』のテイスティングメニューのテーマは「ノスタルジー」で、食べ手の感性に訴えながら、コースの中の「歴史の旅」「物語の旅」「海辺への旅」と思われる「卓上の3つの旅」で懐かしさを覚えさせてくれる。

アミューズ(突き出し)でフォアグラが出てくるのだが、その脇に小さなプラスチックケースが添えられ、開くと中に松脂(まつやに)のついたパラフィンが一枚入っている。それを口の中で溶かしながらフォアグラを食べてほしいと、サービス が言う。

ヘストンが言うには、BBCの依頼でクリスマスメニューを作ることになり、それではとキリストが生まれた地へ出かけた。東方の三賢人がキリストの生誕を予言したあたりをラクダではなくジープで走りだすと、樹齢が千年はあろうかと思われる松の老木があり、松脂をなめたところ大昔のイメージが湧いてきたのだという。これが過去を振り返る「歴史の旅」。

次は、料理名「MAD HATTERʼS TEA PARTY」という「物語の旅」。サブタイトルに「Mock turtle Soup, Pocket Watch and Toast Sandwich」とある。イギリス人ならば「マッド・ハッターズ・ティー・パーティー」だけで、誰しも子どものころに読んだルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の一場面を思い浮かべるはずだ。映画ではジョニー・デップが扮した気のふれた帽子屋さんが、茶会で紅茶の中に懐中時計を入れてしまう。そのシーンをモデルにした海亀を模した(実際は仔牛)スープ。

まず、テーブルにティーカップとポットが重なった器が置かれ、カップにはすでに精緻(せいち)に刻まれた肉と野菜が並べられている。

そこへ、サービスが登場し、うやうやしく小さなケースのふたを開けると、金貨に似た懐中時計が納められている。それをポットに入れると、熱湯の中でたちまち懐中時計が溶けだし、仔牛のスープに金粉が浮かび上がる。それをカップに注いでいただく。海亀のスープは、イギリスでは150年ほど前はみんながよく知るご馳走(ちそう)だったという。

誰もが知っている物語を思い出させ、海亀を仔牛に代えながら、昔の美味に思いをはせる大人のお伽噺(とぎばなし)の料理!

3つ目は「The Sound of The Sea」と名付けられた「海辺への旅」。小ぶりの標本箱に砂が敷かれ、その上にガラスが置かれ、平目と鯖とあわびのマリネが並んでいる。上からは貝で出汁を取った泡状のソースがふうわりとかけられている。シラスで作った食べられる砂も敷かれている。

そして、箱の脇にサービスがほら貝を置いてゆく。貝からのぞいたイヤフォーンを耳に当てながら、魚介のマリネを召し上がってくださいと言う。言われるがままイヤフォーンを耳に当てると、打ち寄せる波の音とかもめの鳴き声、それの遠くの汽船の汽笛が聴こえてくる。テーブルを囲む誰もが目を瞑(つむ)る。全員が、波の音を聴きながら、昔、海へ出かけたときを思い出している。涙をこらえている仲間までいる。この「郷愁」はたまらない。ロンドンの片田舎からそれぞれの海辺へワープするのだ。

どの料理も、世界最新の調理器具と料理技術を駆使して、食べ手にファンタジーとノスタルジックな感動を与えてくれる。

生粋のロンドンっ子のヘストン・ブルメンタールは、なんと茶目っ気たっぷりな天才だろう!

12時に席について食べはじめ、デザートが出るのがなんと4時を回っている。その後にさらにサービスされるのが「スクランブルエッグ」。テーブル脇に銅鍋が用意され、紙のパックから卵を取り出し、鍋の中に割り入れる。もちろん中身は生卵ではなく、クレーム・アングレーズ。アルコールランプは点(つ)いておらず、その代わりにマイナス196℃の液体窒素を流し込む。そうして、木杓子でかき混ぜてスクランブルが完成。パンとベーコンを添えてでき上がり。

延々と時間を忘れておいしいものを食べつづけたために、朝食までいただく羽目になってしまった、というオチがつく。

これぞ「Traveling without moving」ではなかろうか。

山本益博(やまもと・ますひろ)
料理評論家。美食を求め世界を旅しており、フランスからオフィシエ(農事功労章)も叙勲されている。『美食の世界地図』ほか、著書多数。また落語評論家として寄席のプロデュースや著書も。

「アエラスタイルマガジンVOL.52 SPRING / SUMMER 2022」より転載

Illustration:Ayaka Otsuka
Edit:Toshie Tanaka(KIMITERASU)

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