週末の過ごし方
民藝アナザーストーリーに
伝説のビジネスパーソンあり
【センスの因数分解】
2022.06.30
昨年は民藝運動の父・柳 宗悦の没後60年だったということがあり、昨今民藝に何度目かの脚光が当たっています。
民藝運動において、一大サポーターとなった実業家がいました。岡山県倉敷市の大原孫三郎、總一郎親子です。孫三郎は日本民藝館のパトロンであり、その次に生まれた倉敷の民藝館も、彼らなしには語れないでしょう。またサポートの範疇(はんちゅう)を超え、実は象徴的存在を救う役割も担っていたのです。
大原孫三郎は、父が起こした倉敷紡績(現クラボウ)を引き継ぎ、その後倉敷絹織(現クラレ)を設立。日本で最初の西洋美術中心の私立美術館『大原美術館』を建てた人物としても知られています。城山三郎が評伝を発表していますが、タイトルは『わしの眼は十年先が見える─大原孫三郎の生涯─』。先見性を持ち、他者が何を言おうと、これと決めたら貫き通す信念を持った人物だったようです。
孫三郎が采配を振るっていた時期は、日本が軍事力強化を進める時期と符合します。そんななか、倉敷にも軍の連隊が配置される計画が持ち上がりました。消費力が上がり町は潤うと歓迎する気運があるなか、孫三郎は頑として受け入れなかったといいます。それは自身の紡績会社で働く女子工員たちをおもんぱかってのことでした。当時の逆風は相当なものだったでしょう。しかし彼は姿勢を変えず、連隊設営は頓挫しました。
この孫三郎の「いちばんの傑作」と言われるのが、子息・總一郎です。彼が継いだ倉敷紡績の工場は第2次世界大戦中、国策に従い航空機をつくるようになっていました。実はそこに沖縄の伝統的織物・芭蕉布を復興させた人間国宝の平良敏子さんが、当時女子挺身隊として働いていたのです。
父同様民藝運動を支援していた總一郎こそ、戦争により壊滅的となった沖縄織物の道を彼女に勧めた張本人です。沖縄の布といえば、柳が魅せられ戦前より熱心に訪れコレクションしたことでも知られます。それらは貴重な資料として現在も日本民藝館が収蔵。館の宝といった存在です。芭蕉布の原料を畑で栽培するところからはじめ、たゆまぬ努力で復興させた人物の陰には、倉敷で女子工員を守ってきた大原孫三郎と總一郎の姿があったのでした。
とかくモノにばかり光が当たりがちな民藝。しかし“運動”として始まったその核は、もっと大きなことを伝えようとしていたのではないでしょうか? 倉敷という日本有数の美観を保存する町の実業家が選んだ道、サポートした姿にこそ、核の一片が内包されているように感じます。