お酒
唯一無二のシャンパーニュ・クリュッグが受け継ぐものとは。
【センスの因数分解】
2023.12.01
カメラ好き、という人と、ライカ好きでは少しニュアンスが変わるように、どのジャンルでも「これでなくては」と限定したくなる存在があるように思います。アッサンブラージュという製法により、常に高いクオリティと類まれなる味わいを実現しているクリュッグもまた、紛れもない「これでなくては」と言わしめるシャンパーニュではないでしょうか?
アーネスト・ヘミングウェイやマリア・カラスなど、美しい芸術を生み出す人たちが愛好者だったことでも知られるクリュッグですが、実は日本がその最大規模のシェア国であることを知っている人は少ないかもしれません。そして日本で深く愛されることとなった立役者ともいえるのが、オリヴィエ・クリュッグ6代目当主です。
「おかげさまで、クリュッグを愛する人たちは、初めての(クリュッグとの)出合いを鮮明に覚えてくれている方々ばかりです。そしてみなさん、感性が繊細で五感でシャンパーニュを味わってくれているのが伝わってきます。
私は当主となる以前、1990年に来日し日本国内での販路の開拓に尽力した経験があります。当時の日本はバブル経済の只中でしたが、まだシャンパーニュはもとよりワイン文化というもの自体がないような状況でした。バブル時代のパーティの高揚の象徴としてではなく、クリュッグの味わいと感性を日本の方々に伝えていきたい、というビジョンを抱いていました」
オリヴィエ氏はそのビジョンの実現に向けて行動を起こします。翌年には有名割烹と組んでクリュッグと日本料理のペアリングディナーを企画。日本を代表する割烹とクリュッグのマリアージュ……30年以上前では、誰も実現を考えていなかったような企てです。しかし重層的な味わいを持つクリュッグは、繊細かつ奥深い和食と必ず合うはずだというオリヴィエ氏の予想と試みは、当時業界に向けて強いインパクトを与えました。
「ワインに対する成熟した土壌が育まれる前の小さなマーケットであったからこそ、たったひとりのフランス人が発信したことでも響いてくれたように思います。また当時の日本は田崎真也さんをはじめとするトップソムリエが、まさに世界へ羽ばたいていかんとしている若手として台頭してきた時期と重なります。彼らとの縁が、クリュッグを日本のみなさんに伝える際の一助になったことも大きかったと思います。彼らとは今でも良い関係を続けています」
たったひとりで、ワインに対して未熟であった日本マーケットに飛び込み、その国の文化に敬意を払いながら、文化としてシャンパーニュメゾン クリュッグの認知度を上げる。言うは易しですが、そこには日本への理解や地道な努力、つまり対話に加え小さな声を印象づけるための洗練された試みが必要ですし、何より強い情熱があってこそでしょう。未来のラグジュアリーシャンパーニュメゾンの当主は、ひとりのビジネスパーソンとして、この難関を見事突破し、今でも良好な関係は続いているのです。
開拓精神や文化への敬意その原動力となる情熱……、それらはメゾンに代々伝わる「お家芸」といえるものであるようです。
「クリュッグの初代当主は、他のシャンパーニュメゾンとは異なり、シャンパーニュ地方出身者ではありません。ワイン畑を持っていたわけでも、ワインメーカーであったわけでもないのです。また、醸造家であったわけでもありません。私の祖先は事務方として生産者やワインの製造を支えていました。ご存じのとおり、ワインにとって最も重要なのがブドウの質です。しかしながら毎年高いクオリティのブドウを収穫しつづけるのは不可能です。
メゾンの創設者であるヨーゼフ・クリュッグは、たとえ生産者が尽力しても、天候など自然環境に左右されながら良いブドウを待たなければいけない状況を残念に感じていたそうです。毎年最高のシャンパーニュを生み出すにはどうしたらよいか。そんな至上命題の解を導き出すためには、シャンパーニュへの緻密で深い理解が不可欠と、シャンパーニュづくりに関わる事柄を細かく分析していきました。そうして、いくつものワインをブレンドするアッサンブラージュという製法をファウンドしたのです」
唯一無二のシャンパーニュ・クリュッグ誕生の背景には、創設者の「毎年最高のシャンパーニュを生み出したい」という夢と、それに邁進する情熱があったのです。メゾンのはじまりには、道なき道を行く物語がありました。そしてそのスピリットは、世代を超え現在でも脈々と受け継がれているのです。
「シャンパーニュづくりにおいて、畑を理解すること、つまりテロワールと対話することは大変重要です。また夢を追い続けることも私たちメゾン・クリュッグにとって同じぐらい大切です。そしてこれは、初代当主ヨーゼフ・クリュッグの言葉であるのです」
Text: Toshie Tanaka(KIMITERASU)