週末の過ごし方
祈りのアーティスト・小松美羽、
高野山の霊性と大気を描く。
2024.04.16
前日の悪天候が一掃した朝、高野山真言宗総本山金剛峯寺の特設ステージ前のスペースには前日に降った雪がまだうっすらと残っていた。横のお堂からはときどきどっさっと音をたてて雪の塊がすべり落ちてくる。晴れてはいるものの、足下からは冷気があがってきて、手袋なしではちょっと厳しい。
それでも、小松美羽はいつものように白装束に裸足で描くことを選び、金色のキャンバスと向き合う。
真後ろにある根本大塔には、9人の僧侶が立ち、経典「理趣経」に音律をのせた声明(しょうみょう)を朗々とあげ続けている。
「理趣経は、祈りの世界へと誘うための道しるべが滔々と書かれた経典で、祈りの絵をライブペイントするにふさわしい経典。高野山は、生きとし生けるすべての命を生かすためにお大師さまがお開きになられました道場。お大師さまのお教えを未来永劫に受け継ぎ、ひとりでも多くの方々の幸せを祈り続ける場所として高野山は開かれている」と高野山執務公室長・藪 邦彦が解説するように、この日の小松のテーマもやはり「祈り」だった。高野山から、世界から差別がなくなり、世界に平和が訪れることをひたすら願い、祈り、筆をとったのだ。
実はこの日3月21日は、高野山にとって一年のうちで最も大切な一日にあたっていた。
空海が835年に入定(衆生救済を目的として永遠の瞑想に入った状態)した日なのである。空海は現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で入定しているとされる。僧侶や信者たちは、畏敬の念をもって毎年この日を迎えていた。
小松美羽は、短い瞑想を終えてすっと立ち上がると、まず白色のチューブを手に取り、キャンバスの右上に真っ白い犬を描き始める。続いて、その対角線上に真っ黒い犬。そして、青い龍。小松は降りてきたイメージを無心でキャンバスにぶつけていった。
朱色の大塔、白い雪、青い空、金色のキャンバス。その圧倒的なコントラストによって凛とした空気が醸され、さらに僧侶たちの声明に導かれ、やがて金色のキャンバス上にはこれでもかと生命が踊り出す。宗教界のスーパースター空海を誰よりも敬愛し、高野山には数年前から折を見ては入山していたアーティストは、休むことなく絵の具をキャンバスにのせ続け、およそ一時間後にようやく最後の一筆を入れて祈りの儀式を終えた。
小松美羽はこれまでもさまざまな宗教とかかわり、「祈り」をひとつのテーマとして描いてきた。そんな中でも、空海が開いた密教の聖地である高野山は特別な場所だった。
その高野山で2020年に『ネクストマンダラ―魂の故郷』を描いたあと、小松は、京都の東寺の『ネクストマンダラ―大調和』(2023年奉納)へと曼荼羅をつなげていく。東寺もまた空海が賜った寺であり、1200年も前に空海は、高野山と東寺を幾度となく行き来していたのである。その空海ゆかりの両寺で小松美羽が絵を納めたことの意義ははかりしれない。
入定日に催されたライブペイントについて小松はこう振り返る。
「今回もいつも以上に精神を整えて、昨日も奥之院に足を運んで、空海さんの慈愛の心というのを感じてきました。高野山は、ネクストマンダラのときからもう何回も来ているわけですが、何度来てもその奥深さに心を打たれます。まずここの水、水脈にすごい力がありますよね。そして、その水で育つ樹木をはじめとする植物が元気で、雰囲気がどこの場所とも違う。奥にある自然林も日本古来の森という感じで、物の怪の世界すら感じた。たぶん、高野山に来られる方は、そんな自然とか空気を吸って帰られるんだと思います」
そして、この日の絵のモチーフについてこう話した。
「空海さんは、白い犬と黒い犬に導かれて、この地に開山したというお話があるんですが、私もまた山犬さんとのご縁が非常に大きく、今回も描きはじめに白と黒の犬が最初に現れました。その後、水を司った龍が立ち上がり、大地から恵みの水を上げ、それがまたひとつの祈りの形として天に向かっていく様子となりました。空海さんが世界とみなさんのことを思いながらご入定後も祈り続けている姿を奥之院で感じ、それも描きました」
小松美羽は、高野山の抱え持つ霊性と大気を描き、空海の祈りを絵に落とし込んだのだ。人々の幸せをひたすら願いながらいまなお祈り続ける空海の魂に導かれてもいたのだろう。
2024年3月21日――。この日描かれた作品は、高野山真言宗総本山金剛峯寺に奉納された。
1200年の時空を超えて、小松美羽は、密教の聖地でまた大きな「祈り」を成就させた。
プロフィール
小松美羽(こまつ・みわ)
1984年、長野県生まれ。銅版画からキャリアをスタートさせ、アクリル画、有田焼などに制作領域を拡大。2020年24時間テレビ『愛は地球を救う』でのライブペインティングによる作品が、2054万円で落札され全額寄付したことが話題に。2023年10月、真言宗立教開宗1200年記念にて、世界遺産・東寺に『ネクストマンダラ-大調和』を奉納。その制作ストーリーは、小誌vol.53(22年秋冬号)とvol.56(24年春夏号)に詳しい。
Text: Haruo Isshi