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北澤豪、日本のサッカーを語る。代表、協会、これまでとこれから[前編]
2017.06.24
元サッカー日本代表で、ヴェルディの黄金時代を支えてきた北澤豪。引退してからは、世界のサッカーに触れ、日本サッカーの発展に尽くし、障がい者支援を行い、病気の子どもたちの施設などを訪問しつづけてきた。この日、グレーのスーツに身を包み、ダンヒル銀座本店に現れた北澤は、日本代表と自身の未来を語りだした。
北澤豪は、現役時代、とにかく惜しみなく走ることで知られていた。攻撃に守備に、90分間全力で走り、相手に挑みかかるミッドフィルダーだった。そのプレースタイルは、実は、北澤の生き方そのものだったということが、引退後の活動からも見てとれる。
が、それにしても、34歳での引退は、早すぎたのではないか。
「そう思いますよ。ただ、いちばんの理由は、ケガだったから。ごまかしながらうまくやれば、もうちょっとはできたかもしれないけど、自分の思い描いたプレーができなくなったということで、楽しさがなくなった。もちろん、仕事だから、楽しみばかりでないのはわかっているんだけど、お金を取れる選手じゃないな、と思って」
もちろんそれは、簡単な決断ではなかったと北澤は言う。
「やっぱり、ずっとやれるものならやりつづけたかった。引退を決断しなきゃいけないときには、芝生が見えるところ、匂いがするところから離れていたぐらいでした。芝生を見たら絶対にやりたいと思うから。そこが好きだったし」
〝中盤のダイナモ〟と称された北澤は、ファイトあふれるプレーで知られるが、実は、自身のサッカースタイルを誰よりも深く考え、客観視してきた選手でもあった。
「自分が考えていること、組織が考えていることを合わせたらどうなるか、ということを19歳ぐらいからずっと研究していました。チームになじみながら、自分らしさを残していく作業。監督が代わるとサッカーも変わるし、求められるものも違う。それを考えるのが喜びでした」
本田技研時代、JFLの得点王に輝いた北澤は、91年に読売クラブ(ヴェルディの前身)に移籍。90年代を代表するプレーヤーとなっていく。そんななかで、心に深く残るのは、やはり「ドーハの悲劇」だ。ラスト10秒でワールドカップ行きの切符を逃した対イラク戦。北澤は、あのとき、ベンチからその失意の瞬間を眺めていた。
「自分があの場に出ていたらなんとかなった、という思いもあったし、10秒という時間を無駄にしてきたわけじゃないのに、なんだろうな、これは、とも思った。でも、あれがあったから、そのあと、すごい一生懸命サッカーをやったなというのもあるんです」
翌94年、95年には、それぞれリーグ戦40試合に出場し、計20得点を挙げた。
「あの時期、傷だらけでいながらも、すごく充実してました。何が答えかわからない、グレーゾーンのなかで模索していた。うまくいっちゃうよりは、そういうつらい時期が人を成長させるんですね」
日本代表としても活躍しつづけた北澤は、しかし、98年ワールドカップフランス大会の直前、岡田武史監督によって、カズとともに日本代表をはずされてしまう。<後編へ続く>
プロフィル
北澤豪(きたざわ・つよし)
1968年8月10日生まれ。東京都町田市出身。元プロサッカー選手で、現在は日本サッカー協会理事、日本障がい者サッカー連盟会長、サッカー解説者などとして活動。http://www.tsuyoshikitazawa.com/
〈取材協力〉
アルフレッド ダンヒル 銀座本店
ジ・アクアリウム
東京都中央区銀座2-6-7 3階
03-3562-1680
営業時間/11:00~24:00
(日のみ~22:00) 定休日/無休
スリーピーススーツ¥489,000、シャツ¥40,000、タイ¥18,000、チーフ¥15,000/すべてダンヒル(03-4335-1755)、IWCの時計は本人私物
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Photograph: Yoshihiro Kawaguchi(STOIQUE) Hair & Make-up: Rika Tanaka Text: Haruo Isshi