旅と暮らし
作家カズオ・イシグロとの親交も深いジャズ・ソングバード、
その軽やかでエレガントな歌に酔いしれたい初秋の夜
2018.07.31
ライブを観ていて、あるいはアルバムを聴いていて、この女性は本当に歌がうまいなぁといつもうっとりしてしまう人がふたりいる。ひとりは以前この連載でも紹介したセシル・マクロリン・サルヴァント。もうひとりは9月にブルーノートで来日公演を行うステイシー・ケントだ。何をもって歌がうまいとするかを的確に述べるのは難しいし、人によって基準が異なるところもあるだろうが、雰囲気があるとか味があるといった抽象的なそれではなく、このふたりには恐ろしく高度な歌唱スキルがハッキリとあり、抑制の美学といったものがある。柔らかで、甘美で、エレガント。これ見よがしなところなどみじんもなく、ふたりとも歌に気品があるのがいい。
ステイシー・ケントは英語、フランス語、ポルトガル語を自在に使って歌うコスモポリタン。よく言われる“ジャズ・ソングバード”という形容もふさわしい、1997年デビューの歌手だ。出身は米ニュージャージー州サウスオレンジで、ニューヨークのサラ・ローレンス大学(ヨーコ・オノ、カーリー・サイモン、作家のアリス・ウォーカー、映画監督のブライアン・デ・パルマらが在学していた)で文学と語学を専攻したのち、音楽に対する情熱から英ロンドンのギルドホール音楽院に留学。1991年にテナー・サックス奏者のジム・トムリンソンと出会って結婚し、そのままロンドンで音楽活動をスタートさせた。
ステイシー・ケントとジム・トムリンソンは、ジャズ音楽界きってのおしどり夫婦。ケントの作品はいつもトムリンソンがプロデュースを手がけ、オリジナル曲の多くを作曲し、テナー・サックスのほかにアルト・サックス、ソプラノ・サックス、フルートなんかも吹奏する。ライブにも必ず同行。バンドのリーダーを務めてもいる。トムリンソンのソロ作品『The Lyric』のジャケット写真や、ケントの2007年発表作『市外電車で朝食を(原題:Breakfast on the morning tram)』のブックレットの中写真でふたりのいかにも仲むつまじい様子が見られるが、実際のふたりもまさにあの感じ。自分はケントが仏ブルーノートに移籍しての第1弾作品『市外電車で朝食を』を発表したときにインタビューしたのだが、彼女が話してひと息つくと、トムリンソンが「僕も話していいかなぁ」と遠慮がちに言い、ケントはトムリンソンの腕に手を置いて「ええ、あなたも答えて」などと促したり。幸せオーラがじかに伝わってきたものだった。そのとき、ケントはこう話していたものだ。
「私たちは91年に出会って、すぐに結婚したの。彼はサックスとクラリネットを吹いていて、私は歌っていたけれど、当時はふたりとも駆け出しのミュージシャンだった。たとえるなら、小さな木を2本並べて植えて、やがて土の中の根っこが互いに影響し合い、ひとつの芽になって出てきたという感じ。私たちは一緒に成長していった。互いが互いの音楽になりえたの。だから彼なくして私の音楽は成り立たないのよ」
ケントはデビューしてしばらくは主にアメリカのスタンダード・ナンバーを歌ってきたが、2007年に仏ブルーノートに移籍して以降は全曲フランス語の作品(『パリの詩(原題:Reconte-moi…)』を発表したり、パーロフォン・レコードからボサノヴァ曲を多く収録した作品(『チェンジング・ライツ』)を発表するなどして可能性の幅を広げ、近年はというとブラジル音楽界を代表するシンガーソングライターのマルコス・ヴァーリと共演したり(『マルコス・ヴァーリ&ステイシー・ケント・ライヴ』)、ソニー・ミュージックに移籍してボサノヴァの巨匠ロベルト・メネスカルとの共演作(『テンダリー』)を発表したりと、主にブラジリアンに傾いた行き方をしていたものだった。
そして昨年秋に、ソニーからの2作目となる2年ぶりの新作『アイ・ノウ・アイ・ドリーム』を発表。これは彼女が長年夢見ていたオーケストラとの共演を遂に実現させたアルバムで、アントニオ・カルロス・ジョビンの「ダブル・レインボウ」「ファトグラフ」、セルジュ・ゲンスブールの「失われた恋」、ニノ・フェレールの「マデュレイラ通り」といったカバーに自身のオリジナル曲を混ぜたものだった(彼女のアルバムの多くが、このようにカバーとオリジナルを合わせた作りだ)。
聴いていると、「名古屋、名古屋です。ご乗車ありがとうございました。この新幹線は東京行きです」という日本の駅のアナウンスで始まる曲があって、ハッとさせられる。歌詞のなかにも名古屋、東京という言葉が何度か出てきて、初めて聴いたときは思わず耳をそばだててしまったが、このオリジナル曲、タイトルを「バレット・トレイン」といって、つまり新幹線で東京・名古屋間を移動したときの体験談をベースにした歌なのだ。エッセー風とも言えるその歌詞を書いたのは誰かというと、1989年に長編小説『日の名残り』でイギリス最高の文学賞ブッカー賞を、そして2017年にはノーベル文学賞を受賞した日系英国人作家のカズオ・イシグロ。そうと知って驚いた人もいるかもしれないが、実はステイシー・ケント&ジム・トムリンソン夫婦とカズオ・イシグロは前々から交流を重ねてきた。大学で文学と語学を専攻したケントが以前からイシグロの大ファンであり、またイシグロも「無人島に持って行きたい作品」の一枚にケントのアルバムを選んでいたくらい彼女のファンだったのだ。そうして親しくなり、イシグロが歌詞を書いてトムリンソンが曲を書きケントが歌うというコラボレーションがスタート。2007年作品『市外電車で朝食を』にはイシグロとトムリンソンによる曲が4曲も入っていたし(そのうちの1曲「アイス・ホテル」はインターナショナル・ソングライティング・コンペティションのジャズ部門で最優秀楽曲賞を受賞した)、2013年作品『チェンジング・ライツ』でも3曲がこのコンビによって書かれていた。
2007年にインタビューした際、ケントはこう話していたものだ。
「カズオ・イシグロが書いてくれる歌詞はショートストーリーのようになっていて、従来の歌の形式にとらわれていないの。そして、その上にジムが歌詞の醸し出す独特のムードに合ったメロディーを乗せてくれた。私はふたりが創り出した世界に完全にノックアウトされてしまったわ」
ちなみにケントのアルバムにオリジナル曲が登場したのは『市外電車で朝食を』からで、つまりジム・トムリンソンとカズオ・イシグロによって彼女の新しい扉が開かれたとも言えるのだ。
新作『アイ・ノウ・アイ・ドリーム』にはもう1曲、カズオ・イシグロが歌詞を書いた曲が収録されていて、それはアルバムの最後を飾る「チェンジング・ライツ」。2013年のアルバムの表題曲で、それをストリングス・アレンジで再録音したものだ。自分は2013年にオリジナル・バージョンでその曲を聴いたときに深く感動し、いまでもケントの全作品のなかで最も好きな一曲だったりする。そのアルバム『チェンジング・ライツ』のライナーノーツを担当した自分は、そこにこう書いた。
「──それからもうひとつ、やはりカズオ・イシグロが歌詞を書いてジムがメロディーをつけた素晴らしい曲がある。そう、表題曲の「チェンジング・ライツ」。ステイシーが記憶をたどりながら自らの物語を歌っているようでもあり、それでいてドラマのなかの女性を生きているようでもあるこの曲は、聴く者もまたその人なりの人生を投影することができるもの。ステイシーがボサノヴァの魅力として語っていたとおり、哀しみの感情と幸福な感情が曲のなかで出会っているようであり、ひいては過去と未来が交差している感覚もある。ステイシーはカズオ・イシグロのこの歌詞を『完璧」と称賛。アルバムのジャケット写真もこの曲の世界観を表現したものとなった──」
そのような名曲「チェンジング・ライツ」にストリングスが加えられて再録された新バージョンの、なんと美しく、ロマンチックなことか。軽やかに歌いながらも人生や運命の不思議さと深さを表現するケントと、それに寄り添うオーケストラ。まさに絶品。この曲に限らず、新作『アイ・ノウ・アイ・ドリーム』はケントの歌声と流麗なオーケストラの美しくも豊かなマッチングが味わえ、いままでオーケストラをバックに歌ってこなかったことのほうがむしろ意外に感じられるほどだ。
さて、そんな傑作『アイ・ノウ・アイ・ドリーム』を携え、9月にケントが来日。約1年半ぶりのブルーノート出演となる。バンドは夫のジム・トムリンソンを筆頭に、ベース、ドラムス、キーボードの編成。オーケストラの帯同はないので新作そのままの再現とはいかないが、しかし息の合ったカルテットでその作品の収録曲やこれまでにカバーしてきた曲などを軽やかに歌ってくれることだろう。その歌唱スキルと気品、そして彼女のステキな人生を、そこから感じ取ってもらいたい。
プロフィル
内本順一(うちもと・じゅんいち)
エンタメ情報誌の編集者を経て、90年代半ばに音楽ライターとなる。一般誌や音楽ウェブサイトでCDレビュー、コラム、インタビュー記事を担当し、シンガーソングライター系を中心にライナーノーツも多数執筆。ブログ「怒るくらいなら泣いてやる」でライブ日記を更新中。
公演情報
STACEY KENT
ステイシー・ケント
【東京公演】
公演日/2018年9月14日(金)、15日(土)、16日(日)
会場/ ブルーノート東京
料金/ 8500円(税込)※ご飲食代は別途
その他詳細についてはこちら
http://www.bluenote.co.jp/jp/artists/stacey-kent/
【名古屋公演】
公演日/2018年9月18日(火)
会場/名古屋ブルーノート
料金/ 8000円(税込)※ご飲食代は別途
その他詳細についてはこちら
https://www.nagoya-bluenote.com/