腕時計
「腕時計、基本のキ」第4回/コンプリケーションの基礎知識(中編)
2018.10.04

建築が内部空間をもつ芸術とするなら、腕時計は内部に精密機械を備えた宝飾品と言い換えられるだろう。ビジネスマンがタイバーやカフリンクス以外に身に付けられる唯一のアクセサリーと解釈する人もいる。そのせいか、日本では1990年代後半から機械式の高級時計が急速に人気を高めてきたが、それだけに歴史やメカニズム、ブランドや種類といった世界観を十分に把握していない人も少なくないのではないだろうか。いまさら気恥ずかしくて誰にも聞けない、腕時計に関する基礎知識をわかりやすく紹介していこう。
機械式時計の最高峰、グランド・コンプリケーション
前回の最後にワールドタイマーなど実用性の高いプチ・コンプリケーションをテーマにすると予告させていただいたが、その前に勝手ながらグランド・コンプリケーションを取り上げておきたい。その定義は時計ブランドによって多少は異なるが、一般的には複数の複雑機構を搭載したモデルをこう呼ぶ。
第3回で解説した3つの伝統的な複雑機構が中心になっているだけでなく、1970年代にクオーツショックで存亡の瀬戸際まで追い込まれた機械式時計が復活するきっかけになったとも考えられるため、ぜひ紹介しておきたいのである。
1969年に発表されたクオーツ時計は瞬く間に世界を席巻。そのあおりを受けて機械式時計は大打撃を受けたが、1980年代半ばになってから、復活とは言わないまでも、奇跡的に息を吹き返した。アメリカのアンティーク市場で機械式時計の人気が高まり、それが追い風になったとする説もある。
さらに、1985年に発表されたIWCの「ダ・ヴィンチ」が、機械式時計特有の魅力を広く再認識させるきっかけになったと言われる。小窓で西暦を4ケタの数字で表示する永久カレンダーにクロノグラフも搭載しており、この「ダ・ヴィンチ」の成功をバネにして、IWCが1990年から限定で製作してきたのが「ポルトギーゼ・グランド・コンプリケーション」だ。永久カレンダーとクロノグラフに加えて、音で時間を告知するミニッツリピーターも搭載している。

3大複雑機構にスプリットセコンド・クロノも搭載した「1735」
現存する世界最古の時計ブランドとされるブランパンでも、1991年にグランド・コンプリケーションを発表しているが、もう少し複雑な事情が隠されている。というのも、ブランパンは前述したクオーツショックの直撃を受けた格好で1970年代に操業を停止。10年ほどの休眠状態を余儀なくされたからだ。
1983年に新生ブランパンとして復活後は、クオーツ全盛の時流にあえて挑戦する「機械式時計しか作らない」をコンセプトとして、スイス時計の伝統を象徴するシックスマスターピースを設定。ムーブメントから開発する特別なシリーズを毎年のように展開してきた。それが「ウルトラスリム」「ムーンフェイズ」「永久カレンダー」「スプリットセコンド・クロノグラフ」「トゥールビヨン」「ミニッツリピーター」だ。
「ウルトラスリム」はムーブメントとケースが極薄の意味。「ムーンフェイズ」は月相の変化で月齢を表示する古典的な陰暦カレンダーだが、「スプリットセコンド・クロノグラフ」は説明が必要かもしれない。時計業界では「割り剣」と呼ぶ人もいるように、2つの秒針を備えたクロノグラフだ。
スタートボタンを押せば2本のクロノグラフ秒針が重なってスタートする。計測途中でスプリットセコンド用のボタンを押せば、その瞬間に1本の針が停止するのでラップタイムを取ることができる。その間も別の針が計測を続けており、同じボタンをもう一度押せば、止まった針がその針に追いついて再び重なる。フランス語では「ラトラパンテ」と呼ぶが、中間タイムだけでなく、最終的にはひとつのクロノグラフで1位と2位の2人の記録を計測できるわけだ。
ちなみに、ドイツの名門ブランド、A.ランゲ&ゾーネでは、2004年に30分積算計にも2本の針を備えた「ダブルスプリット」を開発。「分」の単位で差がつくような競技でも2人の記録を計測できるものとなった。2018年1月の国際高級時計展示会SIHH(ジュネーブサロン)では、これを発展させて12時間積算計にも「割り剣」を導入した「トリプルスプリット」を発表。マラソンやトライアスロンなど長時間にわたるレースでも、ラップタイムや競い合う2人のタイムを比較できる世界初の機構を開発している。

横道に入ったので話を戻すと、ブランパンでは前述したシックスマスターピースを個別に製作するだけでなく、これらをすべて搭載したグランド・コンプリケーションを1991年に発表。創業年の「1735」とネーミングされたモデルが世界を驚嘆させたのである。
ムーンフェイズは永久カレンダーにはつきものとしても、さらにトゥールビヨンとミニッツリピーターという伝統的な3大複雑機構に加えて、スプリットセコンド・クロノグラフも搭載。しかも自動巻きであり、総部品点数は740個にも及ぶ。一般的な3針自動巻き時計の5〜7倍にも達する部品を直径42㎜、厚さ16.5㎜のケースの中に収めたのだから、シリーズの「ウルトラスリム」の要件も満たしていると言えそうだ。

年代はいささか前後するが、1989年にパテック フィリップは創業150周年を記念して「キャリバー89」を発表。これは腕時計ではなく懐中時計だが、33もの機能を搭載。およそ四半世紀を経て、後述する「リファレンス57260」が登場するまで「世界で最も複雑な時計」とされた。こうした経緯から推察できるように、機械式時計が本格的に復活する前夜とも言える時期に、超の付く複雑時計が次々に開発されたのである。
世界で最も複雑な機械式時計はヴァシュロン・コンスタンタン
「世界で最も複雑な時計」における現在のレコードホルダーは、ヴァシュロン・コンスタンタン。1755年にスイスのジュネーブで創業。以来、一度として途切れることなく時計製作を続けてきた世界最古のブランドといわれる。
この世界記録を樹立したのは、2015年に完成した懐中時計「リファレンス57260」だ。直径98㎜、厚さ50.55㎜の18Kホワイトゴールド製ケースの中に、2800以上の部品が精密に組み込まれており、なんと57もの機能を備えている。これを細かく説明していくとキリがないので、ごく簡単にまとめれば、針だけで時計の表側に19本、裏側にも12本の合計31本に達する。このモデルはビスポーク(特別注文)を受け付ける「レ・キャビノティエ」を通して個人がオーダーしたものなので、もはや実物を見ることができないのが残念だ。

この「リファレンス57260」で開発された技術を応用して2017年に完成した腕時計「レ・キャビノティエ・セレスティア・アストロノミカル・グランド・コンプリケーション3600」は、直径45.0㎜、厚さ13.6㎜の18Kホワイトゴールドケースの中に514の部品を収納しており、23もの機能を備えている。しかも、動力ゼンマイを収納した香箱を6個搭載しており、パワーリザーブは504時間に達する。いったん巻き上げれば3週間にわたって動きつづける、途方もないスーパーロングパワーリザーブだ。

こうした複雑時計の魅力は、電気・電子機器やモーターなどを一切使わず、あくまでもゼンマイを動力として、歯車やカムなどを複雑に組み合わせることで、実にさまざまな機能を果たしているということだ。人間の限りない英知と熟練した手技だけが可能にするメカニズムの小宇宙が、直径4.5㎝程度の腕時計、あるいは小型の懐中時計の中に秘められている。そうしたロマンが感知できるからこそ人気が高く、その魅力が機械式時計全体の復活をリードしてきたと考えられる。
グランド・コンプリケーションは、そのなかでも最高峰に位置する精緻な美術工芸品であり、宝石がひとつとしてないにしても、絢爛たる華と評しても過言ではないのである。
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プロフィル
笠木恵司(かさき けいじ)
時計ジャーナリスト。1990年代半ばからスイスのジュネーブ、バーゼルで開催される国際時計展示会を取材してきた。時計工房や職人、ブランドCEOなどのインタビュー経験も豊富。共著として『腕時計雑学ノート』(ダイヤモンド社)。