特別インタビュー
便利な世の中になったはずなのになぜ、
時間に追われているのか?
2019.07.03
時間管理術を駆使しながら、日々奮闘する現代のビジネスパーソン。だがしかし、結局のところ何に時間をかけているのだろう。
いまどきは、クルマに乗ってエンジンをかける際に、鍵穴にキーを入れて右にひねったりはしない。そもそもイグニッションキーが鍵の形状をしていない。そして、ただスタートボタンを押せば、エンジンがかかるのだ。
何をいまさらと思うかもしれない。キーレスエントリーである。いや、さらにその先を行くスマートエントリーでは、キーは、ポケットに入っているだけでよくなっている。こうした機能は、いまどき最も安いモデルにだって搭載済み。だが冷静に振り返ってみよう。こうしたプッシュスタート機能の歴史は、さほど古くはない。1990年代になって登場し、2000年代に高級車の間で普及したにすぎない。10年ぶりにクルマを買い替えた人は、戸惑うはずだ。ちなみにいまのクルマの平均買い替え年数は8年。10年ぶりにクルマを買い替える人というのは、ごく普通の自動車ユーザーである。
自動車のユーザー・インターフェースがこんなに速くころころ変化していいわけがない。自動車の基本操作は誰もがマニュアルを読まずとも理解できるべきだ。だがそんな古くさい思考で現代を生き抜くのはなかなか厳しそうである。
ちなみに、僕はいまだにガチャッとキーをねじ込んで点火する方式の古いクルマに乗っているので、ときおり人のクルマに乗ったりした際に、スイッチやパネル表示やレバー操作のやり方で戸惑ってしまう。恥ずかしながらスマートエントリー以前のレベルである。これは買ったばかりのスマホが説明書を読まないと使えなかったというのとはわけが違うとも思う。スマホで誰かがけがをしたりはしないが自動車はそうではないのだ。これ以上言うとみっともない言い訳に見えてきそうだ。
時間に追われる理由、
ヒントは適応速度の変化
このコラムのテーマは時間について。現代人が常に時間に追われているのはなぜか。
ヒントは、適応の速度だ。新しいテクノロジーは、研究開発の期間を経たのちにサービスや商品という形で社会に登場し、そしてそのなかの一部が普及し、社会に定着する。
新しいテクノロジーの普及は、ある程度の時間を必要とする。例えば、パーソナルコンピューターは、発明から普及までに約20年かかっている。次の時代に登場する携帯電話は、約10年。スマートフォンになると、その期間はほぼ5年に縮まる。クルマのユーザー・インターフェースの変化のサイクルがどんどん短くなっているのも仕方がない。クルマはもはやスマートフォンの親戚くらいの位置づけの商品になっている。
さて、普及と適応はやや違う概念である。スマートフォンは、普及時期を越えたと思いきや、そこから急速に社会インフラになった。単に電話をかけたりネット検索をしたりする道具ではなく、日常生活に欠かせないものになる。公共機関を使っての移動のときにも各種の支払いなどにもスマートフォンが使われる。普及した装置の上に、日常生活の必需品が載っている状態。プラットフォーム。こうした段階が適応である。普及のあとに適応が訪れる。
ちなみに大昔の技術であれば、適応までの期間はもっと長かった。西洋弓矢(ロングボウ)は開発から実用までに数百年がかかったと言われている。人は登場したテクノロジーに、ああでもないこうでもないと何世代もかけて適応していたのだ。
いつの間にか広がったどん兵衛、
マスク、ビジネスリュック
適応の速度の変化は、テクノロジーだけの話ではない。ちょっと前までは違和感しかなかった新しい習慣が、気がつけば普及している。
カップうどん“どん兵衛”の出来上がりまでにかかる待ち時間は5分。実は10分待ったほうがおいしくなるという知識は、どん兵衛の発明から40年間は、誰も気づいていなかった。いや、気づいた人がいたとしても、それが広く共有されることはなかった。だが、“どん兵衛史”の最近の4年の間で“10分どん兵衛”は急速に知られるようになる。きっかけは芸人のマキタスポーツによるラジオでの発言である。それがネットで拡散し、この食べ方が普及し定着する。いまどきどん兵衛を5分で食べる人のほうが少ないのではないか。人は“10分どん兵衛”に急速に適応したのだ。まさに適応までの時間が短い現代を示す逸話である。
これ以外にも、否応なく適応させられてしまっているというケースもたくさん思いつく。例えば、いまどきはマスクをしている人の約半数が黒い色のマスクをしている。最初は、パンクロックなのかアニメのキャラクターかなにかかとぎょっとしたが、いまは普通の光景である。食の習慣もいろいろと変わりやすい。昔はなんでもソースをかけていたが、いまどきは塩で食べる機会のほうが多い。塩とひと言で言ってもピンクソルトだのヒマラヤルビーだのいろいろ種類がある。
映画も一部の小規模シアター以外はほぼ指定席で見るのが当たり前になった。スーツにリュックを合わせるスタイルももはや定着している。スキニージーンズも最初は違和感が大きかったが、いまや誰もがはいている。
どれもいつの間にか普及してしまったものばかり。もはや否定しても仕方がない。個人がそれに適応するか否かすら問われていないのだろう。否応なしに押し付けられる。クルマのスマートエントリーと同じである。
遅刻がなければ
自由な時間が生まれない?
新しい環境に慣れるまでの期間は、20世紀に短縮化が始まり、21世紀になって加速度を増した。こうしたことを「フラット化する世界」の提唱者で知られるコラムニストのトーマス・フリードマンが「加速の時代」と名付ける。
現代人が忙しいのは、次から次へと新しい環境やテクノロジーへの適応を求められるから。フリードマンは、時間に追われる現代の生活では、約束相手が遅刻をしてきたときくらいしか自分の自由な時間が生まれないことを皮肉を抜きに指摘している(著作の題名がまさに『遅刻してくれて、ありがとう』日本経済新聞出版社、2018年)。
そんな時代への対応力が問われる。その技術や習慣がまだ定着するかどうかわからない段階から先取りする人々がアーリーアダプターである。あとから遅れて対応に乗り出すのがレイトマジョリティーだ。マーケティングの用語だが、社会インフラを受け入れるタイミングの話にも当てはまる。
もちろん、アーリーアダプターも予測をはずし、普及しなかったテクノロジーに乗っかって失敗することもある。だが、慎重なタイプの人間よりも、フライング気味に食いつく人のほうがうまくいく「見る前に飛べ」の時代。「石橋をたたいて渡る」の真逆である。ITサービスで言えば、完成してなくてもまずはベータ版でも公開してしまえの精神と同じである。
生活の時間は、新しい環境への適応のために独占されてしまった。だから現代では誰もが忙しい。だが、新しい環境に適応できない者は、それ以前の環境に適応しすぎた者でもあるのだ。適応は必須だが、適応しすぎもアウトである。適応しすぎるな。とりあえず、エンジンの始動は、ボタンよりもイグニッションキーをひねるほうがいい。そう信じておく。
速水健朗(はやみず・けんろう)
ライター。1973年、石川県生まれ。パソコン雑誌の編集を経て、2001年よりフリーランスとして、雑誌や書籍の企画、編集、執筆などを行う。主な分野はメディア論、20世紀消費社会研究、都市論、ポピュラー音楽など。著作『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』『東京β』『フード左翼とフード右翼』『ラーメンと愛国』ほか、企画編集『バンド臨終図巻』『ジャニ研!』。
「アエラスタイルマガジンVOL.43 SUMMER 2019」より転載
Illustration:Michihiro Hori