週末の過ごし方
地図をつくって旅をする。
角幡唯介
2023.02.09
登山雑誌ではしばしば読図特集が組まれる。聞くところによれば読図特集を組むと雑誌が売れるらしい。登山者も最近はスマホ頼みとなり、ちょっと前まで基本中の基本だった読図をできない人が増えたようだ。
自然相手に自分をためすところに登山の魅力はある。テクノロジー依存がどこまでもいくと、理屈のうえでは飛行機で山頂に行くのもOKとなり、登山が登山でなくなってしまう。だから登山者にはなるべく自分の力で登りたいという願望がある。私も反テクノロジー派なので、その気持ちはよくわかる。でもよく考えたら地図だって所詮はテクノロジーだ。
反テクノロジー派である私は、いつしか地図に頼らない登山や探検を模索するようになった。北海道日高山脈では文字どおり地図なし登山をつづけているし、北極の犬橇(いぬぞり)旅行でもできるだけ地形や雪の風紋を頼りに移動する。ナチュラルナビゲーションというやつだ。そして地図に頼らず旅することで、地図というテクノロジーの限界がわかってきた。
登山や探検でつかうのは、等高線のびっしり描きこまれた地形図である。三次元の地形を俯瞰的に二次元におとしこんだ、すごい発明品だ。地形図は万能で、登山に必要な情報がすべて描きこまれている、とわれわれは思いがちだ。しかし犬橇や狩りをはじめると、それが幻想だと気づかされる。なぜなら地形図に描かれているのは、あくまで地形的な延長だけで、どこに獲物がいるのかとか、どこに犬橇で走れそうなルートがあるのかわからないからである。
当たり前だ!……と言われそうだが、でも本当にそうなのだろうか?
地形図で表現されているのは、測量で計測された客観的で均質な「絵」である。合理主義の立場にたつと、客観的で普遍的なデータをもとに行動するのが正しいやり方だといえるのかもしれない。私たちが無意識に当たり前と見なすのは、この一見正しそうな客観性だ。ところが獲物の居場所や犬橇のルートとなるような雪の固い場所は、そのとき、その場に行かなければわからない。狩りや犬橇旅行ではそうした不確かなものを相手にしないとうまくいかないのに、客観的で普遍的なデータたる地図には本当に必要な情報はのっていない。
狩りや犬橇をすると、われわれの具体的な生はこうした不確かなもの、つねに動くもののなかでいとなまれていることがわかる。だから本当に必要な情報は人によってちがうし、それは自分で見つけるしかない。
この世界で起きることはすべて、そのときどきで変化する。だから最適解は現場の状況にしたがい知恵をしぼるしかない。マニュアルに頼って一般的な方法で処理しても、現場の状況とはかならず開きがあるので、最適解の一歩手前までしか行けないのである。
最近、私は北極でつかう新しい地図をつくりはじめた。その地図には、これまで訪れたルートの線がメロンの皮みたいにぐちゃぐちゃに入り乱れ、獲物の場所や雪や氷の状態が事細かに書きこまれている。その情報を必要としているのは世界で私だけだ。ほかの人にとってはまったく無意味かつ無用の長物である。でもそれを見つけたのは私だし、その情報があることで私の長い旅は可能となり、もっというと私の生はつくりあげられている。だから私にとってはその地図そのものが、私という存在そのものなのだ。
既成の地図を捨てて、自分だけの地図をひろげる。それが今の私のライフワークである。
角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
作家、探検家。1976年北海道生まれ。朝日新聞記者を経て2010年に『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞を受賞しデビュー。主な著書に『漂流』『極夜行』など。近著は『裸の大地第一部 狩りと漂泊』。
Illustration: Kento Iida
Edit: Toshie Tanaka(KIMITERASU)