週末の過ごし方
3回目の本への書き込みと、あらたなはじまり。
渡邉康太郎
2023.02.21
本を読むときペンがないと落ち着かない。読んでいるそばから書き込みたいのだ。印象的な箇所に傍線を引いたり、読書中の興奮を記すために行頭に「!」とだけ書いたり、思ったことを欄外にメモしたり。でも果たして、本を汚してまであえてやるほどのことなのか。
改めて考えてみると、本への書き込みは、いくつかの異なる意味を持っている──いや、 読む回数が増すごとに異なる意味を帯びる、とも言えそうだ。どういうことか。
1回目は、初読の喜びの記録だ。そもそも文字を読み進める行為は、一方向的な情報の摂取ではなく、むしろ双方向的な営みだ。目が文字の上をなぞるあいだ、わたしたちは無意識的に同意したり、興奮したり、悲しんだり、憤ったりする。思考よりも前に、なかば反射的に。自身のなかで、言葉を帯びる前の感情の泡が、微かに湧き起こっては消えていく。さらには、文字に触発されて、これまでの人生のなかで体験したり触れたりしてきた事柄が無数に思い起こされる。読書はしばしば情報を取り入れる行為であると思われがちだが、実は読み手が自ら感じ考え何かを生み出す機会でもある。こういった情念や連想は、同じ本を何回読んでも形を変えて起こるけれど、やはり初読のそれには代えがたいものがある。新鮮な驚きを伴った感想や連想を、そのままでは泡沫のように消え去ってしまうものを、ごく一部でも紙の上に定着できたなら──。このとき書き込みは、本の書き手と読み手が、時間を超えて同じ紙面の場を共有しながら、ともに言葉を投じ合った対話の痕跡となる。
2回目は、再読の道標だ。もし初読が本の上に広がる文字のいばら道を切り開く「歩み」ならば、書き込みとは、あとから道をたどり直すとき迷わぬよう落としておく「パンくず」にもなる。例えば人と話しているとき、ああこの考え方、いつか読んだ本に書いてあったな、と思う。帰宅して本を開くと、著者の言葉のみならず、過去の自身が記した言葉にも出合い直すことになる。自ら書いたとはいえ、過去から来た言葉は、今の自身のそれとわずかにずれていて、さらなる思索を誘う。書き込みは、今と過去の「わたし」同士が、時間を超えて同じ紙面の場を共有しながら、文字の旅路を確かめ合う、足取りの記録だ。
さてごく私事ではあるが、先日思いもかけない形で、3回目の意味の発生を経験した。情報学研究者であるドミニク・チェンさんの『未来をつくる言葉』の文庫化にあたって、カバーデザインと解説の依頼を受けたのだ。わたしはこの本をとても大事に読んでいたので、光栄よりも恐縮の念がまさった。試作と検討の紆よ曲折(うよきょくせつ)を経て、ブックカバーは、まさに「書き込み」をテーマにデザインすることとなった。表紙に、本書を象徴する数行の文章がそのまま抜粋されている、本のなかからあふれ出てしまったかのように。その文章に、一人の読み手であるわたしのメモ、連想のマーキングやイラストが記されている。これは未来の読者へのメッセージだ。他者に差し向けられた書き込みは、過去に先立つ読み手がいたことの証拠であり、未来の読み手を読書へといざなう呼び水となる。
このように書き込みは、いろいろに異なる意味を帯び得る。あるときには、書き手と読み手の時を超えた「対話の痕跡」として。またときには、現在と過去の読み手同士が、擬似的に対話する「文字の旅の反芻(はんすう)記録」として。別のときには、人を「読む行為へ導くきっかけ」として。書き込みとは、いわば、過去と未来、他者と自身、自身と自身、今の読み手と未来の読み手の結び目である。
なおわたしは字がすこぶるへたで、書き込み後の紙面は割と情けない仕上がりとなる。人に見せるのは一抹の恥ずかしさが伴う、でもそれでいい。書き込むことによって、本はやっと完成する──いや、むしろあらたな「はじまり」を得るのだから
渡邉康太郎(わたなべ・こうたろう)
1985年東京生まれ。コンテクストデザイナー、Takramディレクター。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスにて特別招聘教授を務める。著書に『コンテクストデザイン』、共著に『デザイン・イノベーションの振り子』がある。
Illustration: Kento Iida
Edit: Toshie Tanaka(KIMITERASU)