週末の過ごし方
旅と音楽。
坂本美雨
2023.04.05
子どもの頃から、日本とニューヨークを何度も往復した。空を飛んでいる時の、どこにも属していない感覚が好きだった。地上から離れ、飛行機という小さな空間にいないと生きていけない。人間ってなんてちっぽけで、脆もろいのだろう。そして空から見渡す土地はどこにも線なんか引いてなくて、人間の秩序のためにできた国という境目は本当はなくて、今は自分は何国の何人でもない。ただ浮いている生き物だ。それはすこし寂しく、怖かったが、必ず持参していたCDウォークマンを再生すればすぐに恐怖心は消えて、心がどこまでも自由に澄み渡った。そんな感覚がとても大事だった。
旅が与えてくれるものはなんだろうか。その旅が遠くても近くても、長くても短くても、自分に及ぼす影響ってなんだろうかと考えてみると、「自分が何者でもない」という感覚を思い出させてくれること。と、同時に「自分が何者であるか」が浮き彫りになることだと思う。旅と音楽が左右の靴のようにかけがえのないペアなのは、きっと音楽がアンテナとなってそのふたつを敏感に感じる手助けをしてくれるからだろう。音が、旅に魔法をかけてくれる。
誰も自分の存在を知らない、何を成し遂げていようといなかろうと関係ない。その孤独感は、何者でなくても生きてていい、という自分への赦(ゆる)しでもある。移動しながら聴く音楽は、そんな何者でもない脆い自分の周りに薄い膜を作ってくれる。個人的によく聴くのは壮大な自然をイメージさせるアイスランドのバンドや、ミュートピアノで奏でられる素朴な曲など。音楽性は様々だけれど、美しい音色でできた膜は自分を世界から孤立させ、守ってくれる。一人だけれどここは安全、誰も邪魔しない。まるで子宮の中のようだなと思う。絶対的に守られ、養分が運ばれ、どうやらまだ見ぬ誰かに愛されているらしいと微かすかに感じている。その膜の中から外を眺めていると、ふとした光は美しく、世の中は悪くない場所に思えてくる。生まれたら何をしようかな、と胎児が考えているかどうかはわからないが、その温ぬくもりの中で、これからどんなふうに生きていこう、とぼんやり考えたりもする。可能性に溢あふれ、無防備で柔らかい自分が現れる。
また、音楽と共に旅をすると、自分が誰に会いたくて、誰が恋しくて、どんな景色を見たいのか……心が求めていることへの感度が倍増するように思う。ふだんどんなことがしんどいのか。そうか、あの時のあの一言が引っ掛かってたのかも。ああ、このくらいの湿気が肌に合うな……。だんだんと建前が削(そ)ぎ落とされ、心に添うこと、添わないこと、本当のことが浮かび上がってくるのだ。本当のこと、が浮き彫りになったなら、新しく磨かれたその目で世界を見ればいい。薄い膜を吹き消して、柔らかい中身のまま外に出てみる。心がふにゃふにゃで生まれたてだ。そこでまた、音楽が背中を押してくれるのだ、そのままで生きていくのは怖くないよ!と。この繰り返しで、若い頃から生かされてきたように思う。旅と音楽、という美しいペアの靴を履いて。
坂本美雨(さかもと・みう)
ミュージシャン。音楽家の両親の元、東京とNYで育つ。音楽活動に加え、執筆や演劇など幅広い分野で活躍。TOKYO FM/JFN系全国ネット『坂本美雨のディアフレンズ』は12年目に突入。近著は長女、愛猫との暮らしをつづった『ただ、一緒に生きている』(光文社)。
Illustration:Koki Tsubomoto
Edit:Toshie Tanaka (KIMITERASU)