お酒
日本酒の価値を高めたい!
世にもロマンチックな、農と醸の物語。
2023.06.09
「Domaine Kurodashō」という文字が浮かび上がる巨大岩に迎え入れられ、黒田庄「門柳」地区に足を踏み入れた瞬間、「気」が変わったのがわかった。あたかも、「これから始まる壮大な物語をしかと受け止めろよ」とこちらに託されたようでもあった。酒蔵から田んぼへと導かれる一本道に込められた久野九平治さんの思想と哲学――。それは、過去と現在、そして未来へとつなぐ想像を超えた「農と醸の物語」だった。
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エントランスから歩を進めていくと、真新しい醸造施設が次々と目の前に現れる。トラクターを収納する小屋、近代的な精米設備、麹室、ラボラトリーなどなどいくつもの棟が連なり、その間には、さまざまな石のオブジェが点在している。オブジェの脇のキャプションには、酒造りや農業に対する久野さんの思いが記されている。木材が多用された作業場は整理整頓され、美術品が点在し、いい「気」が漂う。単なる酒造りの現場というよりも美術館のイメージに近い。
しかし、これはほんの導入部に過ぎなかった。この広大な施設の本当のすごさは、このあとわかってくる。
さらに歩き、ゆるやかな坂を登っていくと、田んぼが現れ、ここが米の生産地に囲まれた施設であることに気づかされるのだ。山々を背景とした高低差ある土地に何枚もの田んぼがさまざまな表情を浮かべ、待っていたのである。
そこには、まさに「農と醸の垣根を払うために」という久野さんの思想が貫かれた「農醸」が広がっていた。もちろん、ここに至るまでの道程は、決して簡単ではなかった。
2006年、久野さんは、パリにいた。三つ星レストラン「タイユヴァン」に客として予約を入れ、持ち込んだ「九平治」を2代目オーナー(当時)のジャン・クロード・ヴリナに試飲してもらおうというもくろみだった。「九平治」を口にしたシェフは、「海の食材とはワインより合うと思う」と絶賛、久野さんは自信を得る。その後も久野さんは、パリの名店をまわったが、この洗練された日本酒に対するシェフたちの評価は一様に高かった。
しかし一方で、久野さんは、複雑な思いも抱きはじめる。
「シェフたちは、当たり前のように日本酒の原料である米のことばかり聞いてきたんですね。原産地はどこか、どういう品種なんだ、食べる米とは違うのか、と。もちろん答えはするけれど、僕には本の知識しかないから、なんか説得力がないし、向こうもピンときてないのが伝わってきた。彼らがワインについて語るときにはブドウの物語をひたすら話すわけで、当然ですよね。そんな悔しさもあって、じゃあ、自分で米を育てるしかない、となったんです」
2010年早春、久野さんは、トラクター1台で3反(1反約300坪)の田んぼをスタートさせる。「萬乗醸造」の本店は愛知県名古屋市だったが、15代目当主は、兵庫県黒田庄に土地を求めた。久野さんが最も酒米として評価する品種のひとつ、山田錦の発祥の地であり、すなわち、最上の山田錦が採れる場所だった。
その後、久野さんは、毎年変わる天候と折り合いをつけつつ、1年また1年と田んぼの面積を増やしていく。現在は、黒田庄にある「田高」「福地」そして「門柳」の3地区で米を育てる。地元農家との契約栽培米を入れると、始めたときの100倍の米を生産するまでになっている。
久野さんは、米づくりへの挑戦に続き、2013年にさらに新たな冒険に出ている。フランスのブルゴーニュに進出、「モレ・サン・ドニ」にある醸造所を取得し、ワイン造りに乗り出したのだ。
「ワインというものが世界のマーケットでこれだけ楽しまれているのはなぜか。日本酒との違いは何か。なぜ、世界のアルコールのなかで圧倒的巨艦なのか。本の上だけでなく、やっぱり自分の目で体で知りたくなった。造り手の性(さが)ですね。それで、伊藤啓孝という男を栽培と醸造の責任者として送り込んだんです」
久野さんが見たかったのは、日本酒とワインの境界にあるもの、あるいはないものだ。造り手として2つの醸造酒に関わることで、自身の世界、いや日本酒の可能性を広げ、イノベーションを起こしたいと考えていた。
ワインと日本酒の醸造者であり、ブドウと米の生産者という唯一無二の造り手となった久野さんが最終的に目指すのは、日本酒と日本農業の価値の向上だ。「Domaine Kurodashō」の最大目的もそこにある。ブルゴーニュのワインが世界中から認められ、その畑が高く評価されているように、黒田庄が最高の日本酒を生み出す名産地となることを希求している。そして、その結果として、日本酒がワインと肩を並べ、ワインを超えて世界から評価されるようになることを願っているのだ。ヴィンテージを掲げ、熟成を楽しめる日本酒を目指し、それに適していると思われる山田錦と雄町で醸すのも、世界戦略があってのことだ。現在、全生産量に占める輸出量は約30数%。これをいずれは5割まで引き上げたいと久野さんは思っている。
久野さんは、ワインと日本酒の隔たりを埋めんとする戦いをなおも続ける。
「僕にとっては、お米もお酒もロマンチックなものなんです。そのロマンチックさがまだ内外のエンドユーザーさんには伝わりきってないのがもどかしい。巨艦ワインの世界に追いつくために、日本酒の価値ももっともっと高めたいし、そのことでお米や田んぼの価値も上がり、若い人が農業に参入し、やる気になってくれれば、とも思う。そのためにも、この黒田庄で頑張り、次のジェネレーションへとつなげていきたいんです」
Photograph:Hiroyuki Matsuzaki (INTO THE LIGHT)