お酒
相模湾の水平線を目指して。
岸谷五朗が綴る、男と旅の物語
2023.08.28
俳優・岸谷五朗が綴る小説に、そこからインスパイアされたビジュアルストーリーを添えるシリーズ企画の特別編。今回の舞台は熱海。大人だからこそ染みる、一人旅の醍醐味(だいごみ)を──。
選ばれなかった道。
作・岸谷五朗
一心不乱に捧げた青春だった。毎日、唯、只管(ひたすら)、目指した。それでも辿(たど)り着けない小さな山がある。箱根の山……、駅伝だ。
子供の頃からスポーツが得意であったわけではない。球技は花形のサッカーも野球もドッジボールでさえ苦手で、体育の時間は晒(さら)し者の様な気分でボールがこないことを祈るばかりの時間。ところが何故(なぜ)だか、走ることだけは群を抜いていた。だから運動会では、徒競走、リレーなどでヒーロー、自分でも不思議なバランスの運動神経を持って生まれたことに驚いた。したがって大学では当然、箱根を目指した。日々、怪我(けが)を恐れ、ガラス細工のような筋肉に気を使い、厳しいトレーニングを繰り返す。3区から4区へのコースは富士山と相模湾に挟まれ趣味でのマラソンであれば清々(すがすが)しいコースであろう。4区後半から海岸線を右に、いよいよ5区の山登り箱根に向かう。4区を任されていた最後の箱根駅伝で、私は酸欠と共に薄れかけている意識の中で不思議な思いに駆られた。
「このまま、右に箱根方面に進路を取らず海岸線を真っ直ぐ走っていったら、はたして……、どうなるのだろうか……」。変な妄想に囚(とら)われながら、結局相模湾に背を向け箱根の山に向かう自分を、薄れた意識が客観視しながら限界まで追い込み5区にタスキを繋(つな)いだ。結果10位までに入ることはできず学生生活を駅伝と共に終えた。
走る以外鈍かった私はスポーツ界の仕事に就くことも当然なく、大手の家具屋に就職をした。最後の箱根駅伝からもう20年以上が経つ。引退をした頃、燃え尽きた青春の光は虚無に襲われる。必死に駆け抜けた悔いのない「証し」であったと今では思えるが、その当時は生きる希望を失った感が少なからずあった。そんな時、街で捨てられた椅子に出逢った。木製のその椅子に何故だか目を奪われた。僕には、とっても良い……というかチャーミングな椅子に思えた。結局持ち帰って壊れるまで使わせてもらった。駅伝選手の頃、風景は一瞬で通り過ぎ記憶の中から消えていた。「引退」が初めて、止まって「街」を、「物」をじっくり見る大切さに気付かせてくれた。家具というのは、その背景に時にはズッシリと存在し、時には軽妙に浮遊し、その絶妙なバランスは人の心を癒やす力を持っている。捨てられた椅子との「運命の出逢い」は、私を家具屋に就職させてくれた。
ベテランに足を突っ込み少し余裕ができた自分が、何故だろう……右に曲がって箱根を目指さず、相模湾沿いに真っ直ぐ進んでみろ!と、一人旅に出させた。真っ直ぐ行った先には、熱海があった。
辿り着いたのは「ザ・ひらまつ ホテルズ & リゾーツ 熱海」。
驚いた……。宿自体が相模湾に浮かぶような芸術だ。これほどにハマる家具はなく、自分への贅沢(ぜいたく)には最高のホテルである。「自由に過ごす」という一人旅の醍醐味に、出しゃばらず、さり気なく迎えてくれるホテルこそ、僕にとっての一流だ。
贅沢なフレンチが白ワインと共に人生を彩り、雨の相模湾が静粛の中、心を癒やし、明日への活力を沸々と与えてくれる。
学生の頃、右に曲がって箱根を目指すしかなかった。それはベストな選択で最高の青春を与えてくれた。大人の余裕は、違う道も選択し足を踏み入れることが許される。あの頃にはあの頃の道があり、今では今の道がある。違った道を歩き出せば自分の道になるのだ。間違った道はない。「今を必死に生きる!」。すると、そこにまた行きたくなる道ができる。人生が勝手に広がってくれるのである。まだまだこれから幾つもの道を……。走らなくていい、じっくり歩いて行こう。
岸谷五朗(きしたに・ごろう)
1964年生まれ。19歳から劇団スーパー・エキセントリック・シアターに在籍し、1993年『月はどっちに出ている』で映画初主演にして多くの映画賞を受賞し高い評価を集め、以降テレビ・映画での活躍度を高める。94年に寺脇康文と演劇ユニット「地球ゴージャス」を結成。出演以外に演出・脚本も手がけ、毎公演ともソールドアウト必至。
コート¥352,000/ジャンフランコ ポメサドリ、シャツ¥22,000/ギ ローバー、タイ¥20,900/ルイジ ボレッリ(すべてバインド ピーアール 03-6416-0441)、スーツ¥168,300/タリアトーレ(トレメッツオ 03-5464-1158)、ニット¥35,200/レンコントラント(エイチジェイエム 03-6434-0885)、シューズ/スタイリスト私物
※掲載した商品はすべて税込み価格です
Photograph: Yuji Kawata(Riverta Inc.)
Styling: Eiji Ishikawa(TABLE ROCK.STUDIO)
Hair & Make-up: Taichi Nagase(VANITÈS)