週末の過ごし方
近藤真彦、走り続ける男の美学。
マッチ、還暦! これまでとこれから──。【前編】
2025.01.17
調子に乗っていたら終わるだろうし、
調子に乗ってなくても、時代が変われば……。
15歳のデビューから休むことなく走り続けてきた近藤真彦が今年、還暦を迎えた。
アイドルのマッチが60歳──。何か不思議な感じもするが、いざその足跡をたどってみれば、紆余曲折の道のり、スピード感に満ちた人生が密度濃い歳月とともに浮かび上がってくる。
マッチが『3年B組金八先生』で世に出たのは、1979年。翌80年12月12日、『スニーカーぶる〜す』で歌手デビューしたその日から、マッチは一気に嵐の日々へと巻き込まれていく。
81年に入ると、3月に『ヨコハマ・チーク』、6月に『ブルージーンズメモリー』と立て続けにシングルを出し、わずか3曲にして一躍トップアイドルへと駆け上がる。けれども、17歳を前にしたマッチは意外にもクールだった。
「これがいつまで続くのかなという心配と、まあ調子に乗っていたら終わるだろうし、調子に乗ってなくても、時代が変われば終わるという意識もすごく強かった。と同時に、(西城)秀樹さん、(郷)ひろみさん、(野口)五郎さんは誰もが知っている全国区のアイドルで、僕もああいうふうにならないといけないんだとは思っていた。小学生からおじいちゃんまでが知っている全国区のアイドルに。でもそのとき、僕はまだ中高生にだけしかほぼ知られていなかった。まだまだ足りないと思ってました。この世界で本当にやっていけるのかという不安はデビューしてしばらくはありました」
しかし、そんな不安は、デビューから1年を迎えようというある日から少しずつ消え始める。
4枚目のシングル『ギンギラギンにさりげなく』が大ヒットするのだ。
「地方へ行っても、どこかの港へ行っても、空港を歩いていても、『あ、ギンギラギンだ』といろんな人から言われて、届き始めたかなと実感できたんです。そこで少し安心感みたいなものが初めて生まれたのかな」
マッチの多忙ぶりにはこののちさらに拍車がかかっていく。
「何も考える時間がないぐらい移動の連続で、ローマのコロッセオに行った、アメリカに行ったという絵は浮かんでも、もう時期や順番は思い出せないぐらいめまぐるしかった。昔、テレビで見ていたピンク・レディーがインタビューで『睡眠時間は2、3時間』と答えているのを見て、そんなわけないじゃないと思っていたけど、自分がそこに置かれちゃった。ピンク・レディーの言ってたことは嘘じゃなかったと知るわけです」
月曜日の『ザ・トップテン』『夜のヒットスタジオ』にはじまり、『ザ・ベストテン』『レッツゴーヤング』『ヤンヤン歌うスタジオ』といった歌番組黄金時代の代表選手となったマッチは、誰もが知るトップアイドルとなっていた。ただ、マッチ自身は、それでもまだどこか冷めていた。
映画『ハイティーン・ブギ』が公開となった82年、世間的にはマッチの人気は絶頂を極めていたが、自身は、「ここがピークだろう」と俯瞰(ふかん)していた。
「これからは数字的にも落ちていくだろう。でも、知名度はまだこれから上げていかないといけないというような葛藤はありました」
マッチは、この少しあと、ある歌番組の収録後に若手ディレクターをつかまえて、こう思いをぶつけていた。
「おじさん、おばさんたちは、僕のことを腹の中では生意気なやつだと思っていて、いまは売れているけど、もってもあと何年かと思っている。そして、ほらみたことかと言おうと待ち構えている。あなたも、僕がもうあと1、2年しかもたないと思っているでしょ」
人気商売だということは認識しつつも、どこかアイドルを商品として見なしている大人たちへのやるせなさと悔しさもあったのだ。
「ただ一方で、仕事さえ選ばなければ、将来、仕事に行き詰まって困るということはないだろうとも思っていた。ヒット曲はたくさん持っていたし、乱暴な言葉で言っちゃえば、食いっぱぐれることはないだろうなという気持ちはすごくあった。ただ、そこで強く思っていたのは、〝マッチは格好よく生きる〟というスタイルだけは貫かなければ、ということでした」
熱狂の終焉(しゅうえん)、そして――。
90年代に入ると、マッチの思い描いた未来予想図のとおり、その人気には陰りが見え始める。いや、陰りというよりも、熱狂の終焉と言ったほうがいいのかもしれない。年4枚ペースで出ていたシングルは、年1枚になり、やがてゼロという年が現れだしていた。
その一方で、マッチは、80年代の終わりから、本格的に自動車レースにも時間を割き始めていた。88年からF3に挑戦し、94年にはル・マン耐久にも出場、芸能人の片手間と揶揄(やゆ)されながらも、次第にのめり込んでいった。
「芸能界での数字は、僕が持っていた数字じゃなくなってきていたし、僕はそこで『でも、しようがないじゃん。サーキットにいるんだから』とエクスキューズし、逃げていた気もする。芸能界では全開でやってないし、いまはレースで全開だからという気持ちもあって、いまから思えば迷っているようなところもあったんです」
犠牲を払いつつ飛び込んだレース界での成績は、ぱっとしなかった。レースだけを職業としているプロフェッショナルに対して二足の草鞋(わらじ)で立ち向かうわけで、当然そこには壁が立ちはだかった。しかし、レース界に身を置いたことで、近藤真彦の人生は、大きな弧を描いて動き始める。人間としての幅を広げ、社会性を学び、アイドルのときには見えなかったものを身に付け始めるのだ。
「ピノキオみたいに鼻が伸びちゃったアイドルがサーキットでは新人で、へたくそで、べそかきながらレーシングスーツをたたんで帰る。全部セルフでやらなきゃならなかった。鞄は持ったことがない、新幹線のチケットは常に用意されていると、14、15歳から苦労を知らず10年やってきて、初めて常識を学んだんです。対大人ということでも、スポーツという環境の中で僕はいろんなことを学んでいったんです」
マッチは、その後もレースを続け、「ル・マン24時間レース」には7回出場し、3回完走。全日本GT選手権では優勝も果たし、入賞を重ねた
一方で2000年には、「KONDO Racing Team」を立ち上げ、オーナー兼監督としてレースにかかわり始める。そして、これがその後のマッチの人生をさらに深く豊かにしていくことになる。
マッチのレース界での本領は、むしろ監督になってから発揮され始めている。18年「スーパー・フォーミュラ」チャンピオン、20、22年、「SUPER GT」GT300チャンピオンと、輝かしい実績を積み上げてきたのだ。
レース界、自動車メーカーのトップたちはそんな近藤真彦をひとりのビジネスマンとしてとらえていた。そしてそれは、日本レースプロモーション会長への推挙へとつながっていく。
<<後編に続く(1/24[金]公開予定)
近藤真彦(こんどう・まさひこ)
1964年生まれ。歌手、俳優、レーシングチームオーナー兼監督、実業家。1979年テレビドラマ『3年B組金八先生』でデビュー。1980年以降はソロ歌手として、『スニーカーぶる~す』『ギンギラギンにさりげなく』『ハイティーン・ブギ』『ケジメなさい』『愚か者』などなど、ヒット曲を多数発表。現在もコンサートやディナーショーで多くの観客を魅了し、そのスター性は健在。2024年12月には自身が演出・出演するThank you very マッチ de SHOW『ギンギラ学園物語』(構成・脚本:鈴木おさむ)の公演が控える。
「アエラスタイルマガジンVOL.57 AUTUMN / WINTER 2024」より転載
ここには載せきれなかった写真は、アエラススタイルマガジン VOL.57にてお楽しみください!
Photograph: Akira Maeda(MAETTICO)
Styling: Eiji Ishikawa(TABLE ROCK.STUDIO)
Hair & Make-up: GONTA(weather)
Text: Haruo Isshi