紳士の雑学
アメコミ大人映画だけでは物足りない人へ
映画の王道的ディープインパクトを
[センスの因数分解]
2017.11.29
10年以上前の話になるだろうか。建築家の安藤忠雄氏にインタビューしたとき、米粒のような字で書いてある手帳を開いて、4泊6日で世界を飛び回っていると話していた。アルマーニから直接依頼を受けたイタリア、マサチューセッツでの講演etc.。そんななかで新たにサンタフェにも計画があるとも語っていた。サンタフェの安藤建築はトム・フォードからの依頼によるもので、現在は売りに出されているということをニュースで知った。広大な砂漠に出現するコンクリート建築。トム・フォードは大学で建築を学んでいるのだが、彼の建築家的視線は、メインフィールドのファッションだけでなく、映画の世界で大いに生きている……。
あるジャンルを極めた人やトップに君臨する人が、別のジャンルに挑戦するというと、賞賛よりも揶揄(やゆ)されることが多いのは嫉妬ゆえでしょうか。2009年、ファッション界のスターであるトム・フォードが『シングルマン』で映画監督デビューを果たした際も、多くの雑音があったように記憶しています。長年連れ添ったパートナーを交通事故で亡くした大学教授。喪失感に苛(さいな)まれながら暮らすこと1年の後、自ら命を絶とうと決めて……というストーリーで、舞台である1960年代の衣装やインテリアなど、どこをとってもスノッブな仕上がりに、彼のスタイルを貫き通す意志と完璧主義ぶりを感じました。
あれから8年。トム・フォードが新作映画を発表し、これが驚くほどいいという話をニューヨークの旅で聞きました。日本でも公開が予定されているらしいから、よかったら観てと。楽しみにしていた新作『ノクターナル・アニマルズ』。それは深い闇に引きずり込まれるような映画でした。
ロサンゼルスでギャラリーのオーナーとして多忙な日々を送るスーザン。一見華やかな生活に見えるけれど、公私のパートナーである夫には愛人がおり、事業も行き詰まっています。そんな彼女のもとにある日、贈り物が届きます。差出人は学生結婚をしたかつての夫エドワード。中身は彼の書いた小説で、彼女に捧げられたものでした。「君との別れが着想となって小説を書いた。感想を聞かせてほしい」という手紙が同封された本を、エイミーは早速読みはじめます。
映画は3つの場面が切り替わりながら進んでいきます。エイミーが暮らすロサンゼルスの現在、彼女が読み進める小説の世界、そしてエイミーとエドワードが恋に落ち結婚生活を送っていた過去。衝撃的な物語にめまいを覚えながらも、その世界に没頭していくスーザン。かつて小説家志望の彼の可能性ではなく、わかりやすい将来性を選んだ彼女でしたが、その作品世界に圧倒され20年間連絡を取っていなかった元夫に「会いたい」とメールをします。
交錯する現在と過去、リアルと虚構の世界は観る者に油断を許しません。監督がファッション界の頂点に立つ人物であることさえ忘れるほどの強い力があります。そして、この映画自体に内包された情報量の多さも作品に計り知れない厚みを与えています。本物のアート作品が随所に登場することが話題ですが、それ以外にも真っ赤なソファに横たわる女性の裸体のシーンは、ヌーヴェルヴァーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』を彷彿とさせたり、オープニングに出てくる豊満な裸体の女性がテキサスのバーにチラリと登場するなど、シーンが多重の意味をもっているのです。そこに前作から続くトム・フォードの完璧主義ぶりを感じる人もいるでしょう。さらには今回、彼は自身のデザインした服をいっさい衣装に採用していません。シャネルをはじめとする(ある意味)コンペティターのブランドを登場人物にまとわせているのです。それはファッションデザイナーではなく、映画監督トム・フォードとしての徹底した作品づくりに起因しているのではないでしょうか。
小説のなかで繰り広げられる残酷な事件、ため息が出るほどの名建築やアートに囲まれた主人公の現在。ダラマチックな進行で描かれていく本作ですが、その一方でテーマには誰もが共感される普遍性があります。「人生のなかで私たちがなす選択がもたらす結果と、それを諦めて受け入れてしまうことへの、警告の物語」とトム・フォードは語っていますが、主人公が直面した霧のなかにある夢か安定かという選択やその過ちは、古今東西誰もがと身に覚えがありそうな過去です。トム・フォードは、抜群の美意識を隅々にまで行き渡らせながら共感をドラマチックに描いていくのです。畑の違う世界からやって来た監督は、全体としては切れ味に欠けたデビュー作を経て、それを見事に映画的に昇華させたのです。
自分はこの映画をこれから何度も観ると思います。主人公が身に着けているファッションや、アート、そして登場人物など、演出に込められたメッセージを探して。そして、自身の人生の選択に対する辛辣(しんらつ)な投げかけを受け止めるために。こんな楽しみは、大人にだけ許された特権です。往年のコミックや特撮ものが大人辛口なエンタテインメント作品に生まれ変わるという映画界のムーブメントは、ハリウッドでも日本でも大成功しています。けれどこういうアダルトオンリーな作品もやはり映画の素晴らしいところであることを、『ノクターナル・アニマルズ』を観て確信したのでした。あやしく美しい“ザ・映画”を観るのは、国境を越えなくても可能な世知がらい日常から遠く離れる術だと思います。スノッブすぎると敬遠するより、その非現実に思い切り身を委ねるというハイダウェイもいいものですよ。
『ノクターナル・アニマルズ』公式サイト
http://www.nocturnalanimals.jp/
プロフィル
田中敏惠(たなか・としえ)
ブータン現国王からアマンリゾーツ創業者のエイドリアン・ゼッカ、メゾン・エルメスのジャン=ルイ・デュマ5代目当主、ベルルッティのオルガ・ベルルッティ現当主まで、世界中のオリジナリティーあふれるトップと会いながら「これからの豊かさ」を模索する編集者で文筆家。著書に『ブータン王室はなぜこんなに愛されるのか』『未踏 あら輝 世界一予約の取れない鮨屋』(共著)、編著に『恋する建築』(中村拓志)、『南砺』(広川泰士)がある。