紳士の雑学

究極のノンフィクション、究極の読書体験
角幡唯介の『極夜行』のすさまじさ[センスの因数分解]

2018.04.05

写真・図版 田中敏惠

写真・図版
(c)角幡唯介

「今度北極で、一日中太陽の上らない極夜を体験します。普段は太陽の動きで一日のリズムが生まれるけれど、それがなくなった時にどう感じるのか確かめてみたいんです」。いまから2年ほど前、本誌『アエラスタイルマガジン』で角幡唯介にインタビューした際、次に見据えていた冒険について彼はそう話していました。先日立ち寄った書店で黒い表紙に『極夜行』のタイトルの本を見つけたとき、話していた冒険がとうとう本になったのだと早速読んでみました。読み終わり、今年いちばんの本にすでに出合えた気がしています。

極夜の旅は、グリーンランドの最北にある小さな猟師村シオラパルクから始まります。先住民が暮らす集落としても最も北となるこの地で、冒険の相棒として育てた犬を伴い、電気やガゾリン、GPSなどの力をまったく借りず、自身と犬のみで橇(そり)を引きながら一日中太陽の上らない闇の世界を旅するのです。最初の関門・メーハン氷河で嵐に遭い幾日も足止めされ、その嵐でナビゲーションの要となる六分儀を失い、以降を地図とコンパスだけを頼りにしなければならないという大きなハンデをいきなり背負うことになります。天候だけではありません。北極の厳しい環境は、4年前から念には念を入れて計画してきた角幡唯介一世一代の冒険を、残酷なまでに妨げるのです。

写真・図版
(c)角幡唯介

漆黒の闇のなか、コンパスと地図のみで進む角幡を、頼みの綱である月光が惑わし、複雑な地形が惑わし、さらには野生動物が絶望へと突き落とします。北極の、闇の世界での迷走やつまずきがそのまま死と直面する厳冬の北極。本書では旅の相棒である犬を殺(あや)めて食べるところを想像するまで追い詰められる極限の行程が、臨場感たっぷりに書かれています。そして私たちはこの極限のなかでの冒険を、臨場感だけでなく、同時代性も持ちながら読み進めることができるのです。

現代テクノロジーを排除しながら闇の世界で一頭の犬と続ける旅。角幡が天空の星に物語を見いだすさまは神話や信仰の誕生をうかがわせます。それは文明以前の太古の人の営みにも近しく、犬とともに旅するさまは狼から人の世界へと近づいてきた犬と人間のそもそもの関係性が漂います。闇とはどんなものなのか、光とはどんな存在なのか。自然ということ、命の営みということといった人の根源に関わる事柄が表れています。それは、漆黒の闇から遠く離れた世界に暮らす私たちの、鈍くなりすぎた生命の感覚を、大いに刺激するのです。もしかしたら、世界で最初に北極点に到達した探検家と同じ時代に暮らしていた人たちよりも、より強いインパクトをもって角幡唯介が体験した事柄を受け止められるのではないでしょうか。

現在の生活は、日常のほとんどをテクノロジーに依存しています。温度の調整された部屋に暮らし、自分で料理しなくても簡単に食べ物は手に入り、冷めたら数十秒で温めることができます。家から職場まで、一段も階段を上らずに到着できる都市生活者も少なくないでしょうし、道の名前や方角を一切覚えなくても目的地にたどり着くことができます。そんな便利さと引き換えに、本来人間が持っていた能力をどんどん失っているのは明らかです。北極の闇夜に吹き荒れる豪風の恐怖におののき、光のない世界に鬱々(うつうつ)として眠れない日々を過ごす角幡唯介は、私たちの祖先が繰り広げてきた生への執着、死の恐怖との対峙をいやというほど体感しています。それは同じ時代を生きていながら、現代社会に暮らす私たちとは想像を絶する乖離(かいり)があります。ギャップたるや人類史上最も大きいはず。彼はテクノロジーに依存する現代を、その時代に生きる者としてしっかりと理解しながら、このとんでもない暗黒の世界の旅へ挑み、そして読者を誘ってくれます(本書では生き死にのダイナミズムとキャバクラ嬢に入れ込んだ思い出がフラットにつづられたりするのですが、そういうところも極夜での出来事に読者の共感を芽生えさせるのに一役買っているのではないでしょうか)。

望む、望まざるという意識すらないほど、知らず知らずのうちに便利になる世の中と引き換えに、私たちは身体性や自主性、主体性を奪われた日常を暮らしています。角幡唯介という探検家がひとり挑んだ挑戦は、そんな私たちに圧倒的な説得力と深いインパクトをもって「自然の力のなかでの人の無力」を伝えます、「光があることと生きることの関係」を、「闇と死の密接」を伝えます。

写真・図版
極夜が明け始めると、地平線に沿うように太陽が顔をのぞかせるという。(c)角幡唯介

デビュー作でありベストセラーとなった『空白の5マイル』の発表から8年。もはや地図上に空白などなく、かつての探検という言葉が担っていた行為が新鮮ではなくなってしまいました。そんななか、心身ともに探検家としてのピークに角幡唯介が選んだ闇の世界への旅は、新しい時代の「真の探検」です。そして「真の探検」を一冊の本として発表することで、便利至極な世界に暮らす読者にも自然を、太古から続く鮮やかな生命の営みを教えてくれるです。

人生100年時代がやって来るといわれているいま、その人生に腹の底から感じ入ることができる事柄はいくつあるだろうと、ふと考えることがあります。食べ物があるということの喜び、ゆっくり眠れる幸せ、パートナーがいる温かさ、光を浴びる感動、そして生きている実感を……。角幡唯介は、自身の探検家人生を懸けて、いや命を懸けてそれを表現しました。4年の準備期間、数百万の自己投資、そして80日間に及ぶ極夜での冒険。まさに人生を懸けて仕上げた作品だと思います。3年後のビジネスではなく、生きるということのために……。『極夜行』は生きることの根源を伝える一冊であり、読書の究極的醍醐味でもあるのです。

極夜行

プロフィル
田中敏惠(たなか・としえ)
ブータン現国王からアマンリゾーツ創業者のエイドリアン・ゼッカ、メゾン・エルメスのジャン=ルイ・デュマ5代目当主、ベルルッティのオルガ・ベルルッティ現当主まで、世界中のオリジナリティーあふれるトップと会いながら「これからの豊かさ」を模索する編集者で文筆家。著書に『ブータン王室はなぜこんなに愛されるのか』『未踏 あら輝 世界一予約の取れない鮨屋』(共著)、編著に『恋する建築』(中村拓志)、『南砺』(広川泰士)がある。
http://ttanakatoshie.com/

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