志高き実業家が、アートに託したもの。(02)
2019.10.08
情報の洪水のなかで高まる目利きの重要性
大原美術館は日本では戦時下を経験した数少ない館でもある。そして戦後の美術館経営に大きな革新をもたらしたのは大原孫三郎の長男、總一郞だった。
「彼は〝美術館は生きて成長していくもの〞という明確な信念を示し、所蔵作品の拡充、それに伴う展示棟の増設、各種シンポジウムの開催といった普及教育活動にも着手しました。かつて總一郞のコレクションを収集年順に並べるという企画展をやった際、傾向として總一郞の思想がはっきりと表れていてなるほどなと思いました」
最初はセザンヌ、ロダンなど孫三郎と児島が集めていた時代を補完する作品。次に自分が生きた時代に描かれたピカソやフォンタナ、カンディンスキーなどの作品へ。そして次第にフォートリエ、ポロックなど、より新しい表現を求める同時代の作家たちへと広がっていった。1960年代になると日本の現代アートシーンにも関心を寄せ、吉原治良、草間彌生など同時代日本の前衛的な、当時まだ評価も定まらない作家の作品も制作からほどなく収蔵した。
「戦後、總一郞が社長を務めていた倉敷レイヨン、現在のクラレが〝ミラバケッソ〞というCMを近年やっていたのを思い出しました。アートに関してもまさにミラバケッソ(未来に化ける素材)を買っていたんだねって(笑)」
もちろん、總一郞が合理的に情報収集をしたうえで購入を決めていたのは言うまでもない。それでも大量の情報からコレと思うものをすくい上げ、不確実で高度な判断を迫られたとき、最終的にものをいうのは未来をキャッチする感性や直観、審美眼や哲学だろう。
また、民藝運動とのかかわりについて柳沢さんはこう説明する。
「日本民藝美術館設立趣意書が1926年に出て、中心メンバーの柳宗悦は同年に大原美術館で講演をし、河井寛次郎はそれ以前から虎次郞と交流がありました」
その当時から大原家は民藝運動にかかわる作家の作品を集めていた。そのため總一郞は大原家の米蔵を改装し、工芸・東洋館という展示棟を新たに作る。「よりクリエーティブに」と設計を依頼した芹沢銈介が、内装・外装・作品の並び位置までセッティングした。
「無用の長物となってしまったけれど、總一郞としては匠の技が生かされたすばらしい蔵をなんとか活用したいという思いがあった。いまで言うリノベーションですね」
多様な価値観を受け入れる寛容性をアートで育む
現在の大原美術館は、總一郞の長男・大原謙一郎、さらにその長女の大原あかねが理事長となり、元国立西洋美術館館長の高階秀爾が館長を務める。そして21世紀の社会のために〝意義あること〞として、美術館の在り方を示すさまざまな事業を展開している。
「これまでのアートは社会のごく限られた層だけが教養のためにアクセスするものだったかもしれません。ですが、いまはインスタ映えする視覚的な面白さを求めて若い世代が気軽にアクセスするなど環境の変化があります。僕らはアートに触れることは、あらゆる人にとって何かしらの効き方があると感じていて、その実現に向けてやれることから戦略的に取り組んでいます」と柳沢さんは力を込める。
実際のところ、大半の人にとってアートは「わからない」「難しい」ものである。美術館に足を運ぶ人ですら〝理解すべきゴール〞として作品と向き合ってはいないだろうか? 柳沢さんは、社会における美術館やミュージアムの役割を「価値観を提示して押しつける場ではなく、作家と観客それぞれにある多様な価値観を受け入れるプラットホーム」と説明する。
「大原美術館では、倉敷市を中心とした保育園や幼稚園を対象に、アートや美術館の面白さをのびのびと体験できるプログラムを1993年から行っています。年間延べ3000人近い未就学児童を受け入れてはや25年、かつて5歳のときに複数回、大原美術館でプログラムを体験した大人たちはアートや美術館がつまらないとか難しいなんてちっとも思わない(笑)」
そこで、アート的な思考や感覚をビジネスに採り入れたい人へのアドバイスを最後に聞いてみた。
「これは高階館長の受け売りですが、アートとは世界観の拡張。まったく新しい価値観、わけのわからない謎めいたものに出合えるのがアートという世界です。いまビジネスマンがアートとかかわりを持とうとするとき、いちばん大切なのは自分がすぐには理解できないものを拒絶しない、排除しないということ。和して同ぜず、それが多種多様な価値観への寛容性を広げてくれるはずです」
Coordination&Interview:Masaru Ishiura
Photograph:Natsu Tanimoto(studio track72)
Text:Takako Takano(plusT9)