特別インタビュー

古人の記憶を解凍する旅。
安田 登

2022.01.21

日本ならではの「道行」という旅

能ではその旅は「道行」という謡(うた)によって表現される。道行はさまざまな土地を読み込んでいく謡いものであるが、ただ地名の羅列だけではなく、そこには情景や心情もともに謡い込まれていく。

ちなみにこの「道行」、西洋の古典にはほとんどない。『オデュッセイア』には霊魂の道行のようなものがあり、『アガメムノーン』には松明(たいまつ)の道行のようなものがあるが、日本の道行とはだいぶ違う。情景も心情も謡われないのだ。

なぜ、日本の道行では情景や心情が謡われるのか。それは日本の地名の特殊性と、そして地名のもつ霊性や神性に由来するからではないだろうか。

日本は、時代をあらわすのに地名を使う。そして、時代を冠された土地は、その時代の性格をいつまでも保持する。

これは時代を冠された土地だけではない。『風土記』や『古事記』などの中には地名が命名された神話が多く載っている。

ヤマタノオロチ退治を終えた建速須佐之男命が、自身の宮を造るために須賀の地にたどり着いたときに「この地にやって来て、私の心はすがすがしい(吾此の地に来、我が御心すがすがし)」と言ったことで、この地名が須賀になったとか、あるいは神武天皇東征のとき、神武天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)が、深傷の御手の血をお洗いになった土地が「血沼海(ちぬのうみ)」と呼ばれるようになったとか、そのような話が日本の神話にはたくさんある。

その名を聞けば物語が脳裏に再生され、その地に立てば眼前に神話が出現する、それが日本の土地なのである。

道行では「歌枕」を巡る。歌枕とは、古歌に多く詠み込まれた名所をいう。なぜ「枕」というのだろう。

民俗学者の折口信夫は「まくら」というのは、神霊がうつるのを待つ装置(設備)だという。祭礼の夜、神霊はまくらに憑よ り移り、託宣者がそこに頭を置いて仮眠をする。すると、まくらに移った神霊は託宣者の中に入り、神語を託宣するというのだ。「枕」がそうであるならば、歌枕というのは歌人の神霊が宿る土地をいうのであろう。物語を記憶する日本の土地、それにさらに古人の歌が記憶されるのが「歌枕」なのである。

だから、歌枕はおざなりに通過してはいけない。

藤原清輔(きよすけ)の書いた『袋草紙(ふくろぞうし)』には、竹田大夫国行という者が白河の関を通過する日に特別の装束を着て、髪を整えたとある。わけを問うと「歌枕を普段着で通り過ぎることはできない」と答えたという。

服を正して歌枕を通過する旅人は、古人の歌を思いながら、それに重ねるように自身も歌を詠む。歌枕として認定されたときの元の歌に、旅人の詠んだ歌が重なる。さらに次の歌人が詠えば、また重なる。さらに次の歌人、次の歌人と無限に積み重ねられた歌は圧縮されて土地に記憶される。

歌枕は圧縮ファイルのアイコンのようなものだ。歌を詠むということは、そのアイコンをクリックして解凍することを意味する。歌によって解凍された数多な古歌の記憶は、旅人に向かって一挙に押し寄せてくる。

それだけでなく、歌枕の記憶は次に行くべき地も教えてくれるのだ。それはまるでブルース・チャトウィンの紹介するアボリジニの道、ソングラインのようだ。アボリジニたちが精霊の声に導かれるがまま移動を続けると、その軌跡がソングラインと呼ばれるようになったという。

『奥の細道』は時空を超える

「そんなの古典の中だけの話だ」と一蹴しないでほしい。

私は能のワキが歩いた土地を歩いたり、引きこもりの人たちと松尾芭蕉の『おくのほそ道』のルートを歩いたりする。芭蕉の『おくのほそ道』も歌枕を巡る旅だ。

『おくのほそ道』の那須野を歩いたときのことだ。

松尾芭蕉は、ここで不思議な体験をした。暮れるはずのない日が突然暮れ、雨も降ってきた。雨宿りのために農夫の家に泊まった翌朝、昨日まであった一本道が消え、蜘蛛手に分かれる迷路になっていた。

芭蕉は道に迷った。

そこにいた草刈男に嘆き寄ると、彼は道を知るという馬を貸してくれた。それに乗って野中を行けば、馬の跡を慕うように童女と童子が走っている。童女の名を聞けば「かさね」という。八重撫子(やえなでしこ)の花の名だ。

まるで草刈男の持つ花から抜け出して来た精霊のようである。

そんな那須野を私も歩いた。那須周辺には「馬」に関連する石碑が多かったり、あるいは不思議な文字で書かれた石碑もあったりして、それだけでも異界に迷い込んだような気持ちになる。

そんな石碑を読みながら途中までは順調に歩いていた。が、突然、道に迷ってしまった。

「どっちに行ったらいいのだろう」

そう思いながら、林道の辻で地図を見ていると、トラクターに乗ったおじさんがやって来た。ゆっくりこちらにやって来るおじさんは、トラクターの上から唐突に話しかけてきた。

「この村は不思議な村なんだよ。ここには六百年前の墓があるんだ」

そう言いながら、道を教えてくれ、そのまままた林の中に姿を消してしまった。

フィクションではない。六百年前といえば能のできた頃だ。世阿弥の時代の那須にまぎれ込んでしまったような錯覚に陥った。このような不思議な出会いは歌枕を巡る旅をしているとよくある。本当によくある。旅とは、いま目の前にある現実の、ほんのそばのもうひとつの現実に誘ってくれる。

ああ、コロナよ早く終息してくれ。また、旅に出たい。

安田 登(やすだ・のぼる)
下掛宝生流能楽師。能のメソッドを使った作品の創作も手がける。著書に『異界を旅する能』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。』『能―650年続いた仕掛けとは』ほか多数。

「アエラスタイルマガジンVOL.51 AUTUMN / WINTER 2021」より転載

Illustration: Ayaka Otsuka
Edit: Toshie Tanaka(KIMITERASU)

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