週末の過ごし方
昆虫少年の夢旅行。
福岡伸一
2022.05.09
世の中の人を大きく2つに分けるとマップラバーとマップヘイターに分類することができると思う。地図が大好きな人と地図なんて大嫌いな人である。私は前者。駅を降りてもまず周辺図を見る。百貨店に入ってもフロアプランを見る。そして自分の現在地を確かめ、どのような経路で目的地に行くべきか考えないことには動き出せない。現在地の点が、擦り切れていることがよくあるが、そんな場合はかなりイライラする。最近は、電車の乗り換え案内などもすぐにネットで検索できるようになっているが、私は、ちゃんと路線図で全体像をたどらないと落ち着けない。一方、マップヘイターは、地図なんてまどろっこしいものは見ない。だいたいの直感で「あっちの方」というのがわかり、すたすたと歩き出せる。そしてちゃんと行き着くことができるのだからたいしたものである。
考えてみれば、ヒト以外の生物はみな地図などなくても、太陽の方角や、風、匂い、はたまた地磁気などを手がかりに、巣の場所や餌のありか、異性の存在をつきとめてアプローチできる。つまり、マップヘイターは、生物学的に本来的で、より優れた野生を保存しているヒト、と言えるかもしれない。
野生というよりはひ弱で、内向的だった私は、子どもの頃から、地図が大好きだったし、図鑑が大好きだった。私の愛読書は『世界の蝶』という図鑑で、世界中の美麗な蝶が写真入りで網羅されていた。つまり図鑑も、地図の一形態であり、この世界に存在する美しいものをマッピングした書物なのだ。マップラバーが好きになるはずである。東南アジアの島々に棲息するというトリバネアゲハや南米のアマゾンを飛び交うモルフォチョウの輝きに魅了された。私は見知らぬ高山地帯や熱帯雨林を夢想した。
『世界の蝶』の中で、ことさら私を魅了した蝶があった。コウトウキシタアゲハである。キシタアゲハとは、その名の通り、上翅の黒に対して下翅が黄、という意味である。このとりあわせは、実に目の覚めるような鮮やかさで、黒と黄の対比がくっきりと際立つ。しかもよく見ると、黒の中の翅脈(蝶の翅を支える細い骨組み)に沿って灰色のライン、黄の中の翅脈に沿って黒のラインが走っている。この配色の妙ときたらいったいなんと呼ぶべきか。天の配剤としか言いようない。どんなに奇抜な現代美術家でも、いかに優れたデザイナーでもこんな造形はできない。
そしてなによりこの蝶全体のかたちのバランスが抜群なのだ。日本のアゲハチョウよりもずっと大型であるにもかかわらず、マッターホルンにように切れ上がった流線型の前翅と小ぶりに丸くまとめた後翅の軽やかなこと。これだけでも昆虫少年を昇天させるに十分なのだが、自然はさらに過剰なまでの装飾をこの蝶に与えていた。首元に真っ赤なスカーフをつけていること。このワンポイントが何ともセンスがよく、スタイリッシュさをさらに引き立てている。私は陶酔感に包まれながら図鑑の中のコウトウキシタアゲハにみとれた。
もうひとつ、コウトウキシタアゲハを巡って私を虜(とりこ)にしたことがある。図鑑には、コウトウキシタアゲハの特徴が短い文章で記されていた。そこにはこんな風に記載してあった。コウトウキシタアゲハのオスの下翅の黄色は単なる黄 色ではなく〝構造色”を示す。光が斜めに当たると、黄色は緑色に近い真珠色に変化して輝く。自然界の中でこのような黄色の構造色を示すのは本種だけである、と。
コウトウキシタアゲハのコウトウとは、地名に由来する。台湾本島の南方海上に小さな孤島がある。それが紅頭嶼(こうとうしょ、しょは島の意)だ(現在の中華民国の名では、紅頭嶼は、蘭嶼(らんしょ)と呼ばれている。この島は台湾本島とは全く別の生態系を持ち、コウトウキシタアゲハは、紅頭嶼を象徴する固有種である)。
少年はため息をついた。ああ、そんな色がほんとうにあるのなら、この蝶が天空を舞う姿を、一生に一度でいいからこの目で見てみたい。いつかそんな場所にほんとうに採集旅行に行けたらどんなにすばらしいだろうと思った。このとき以来、コウトウキシタアゲハは私の原点に位置する蝶となった。
実は、旅は、行きたいと思う場所が見つかったその瞬間から始まっているのだ。