週末の過ごし方

昆虫少年の夢旅行。
福岡伸一

2022.05.09

少年時代の憧憬、不意にやってくる

以来、長い年月が過ぎた。昆虫少年だった私は、そのまま自分の好きなことを好きであり続け、生物学者になった。ただし、昆虫学者になったのではなく、生命をもっとミクロな視点から、ー遺伝子やタンパク質のレベルからー、研究する分子生物学者となった。これは時代の趨勢(すうせい)でもあった。忙しさにとりまぎれ、蝶の採集旅行に行くなんて全く不可能なことだった。それに目の前のやるべきことに追われて、少年時代の憧れも半ば忘れかけていた。でも、私は、台湾の孤島の青空に舞うコウトウキシタアゲハのことをときに思い出すことがあった。真珠色に変化(へんげ)する構造色を持った蝶。思い続けさえすれば機会は巡ってくるものである。

還暦を前にして、研究仕事も一段落したある年(正確にいえば、コロナが世界を覆い尽くす前の2019年の夏)、ある出版社が私の積年の夢を聞きつけて、それなら旅の紀行を本にするという約束で、取材旅行のプランを企画してくれたのである。なんとすばらしいことだろう。私たち一行は、羽田から一路台湾に飛び立った。台北まではわずか数時間のフライトである。しかしここから先が長かった。別のローカル航空に乗り換えて、台湾南端に近い台東という街に行く。周りにはのどかな農地が広がる田舎である。ここで一泊し、翌朝、港から小船に乗って、紅頭嶼に向かう。波は荒く、海流は速い。船はかなり揺れて、くらくらしてきた。小雨も降ってきた。それでも海面には何百ものトビウオが何度も何度も飛翔を繰り返していた。そう、紅頭嶼に住んでいた原住民のヤミ族たちは、トビウオを海の守り神として崇めていたのである。

ようようにして島の小さな船着き場に到着した。とたんに土砂降りのスコールに見舞われた。ここはもう亜熱帯に近いのだ。我々はほうほうの体で、港近くの民宿にたどり着いた。こんな雨では蝶の採集など到底おぼつかない。

翌日から私たちは蝶をもとめて島のあちこちを探検しはじめた。紅頭嶼の最高峰、紅頭山にも登ってみた。標高はほんの数百メートルの山なのだが、ほとんど人が登ったことがなく、山道は荒れ、かなりたいへんな山行となった。それでもコウトウキシタアゲハは姿を現してくれない。

旅行の最終日を迎えた。この日の午後には島を出発しなければならない。私は最後の望みをたくして、山の麓のちょっと開けた場所にやってきた。この近くには蝶の幼虫が食べる食草があり、蝶が蜜を吸いにくる花もあるからだった。青空が広がっていた。私は半ば諦めかけていた。ここまで来ただけでもいいじゃないか。そう思えた。その瞬間だった。斜め前方の上空をひらひらと舞ってきたものがあった。黒い前翅と黄色の後ろ翅。まぎれもなくコウトウキシタアゲハだった。私は持っていた捕虫網を無我夢中で振った。その瞬間、青空から蝶の姿が消えた。足元を見ると、草むらに伏せた捕虫網の中に、コウトウキシタアゲハの黄色い羽がパタパタとあばれていた。やった! ほんとうにコウトウキシタアゲハをこの手で捕獲した。私は天にも登るような気持ちになった。それから蝶を傷つけないように網からそっと取り出し、その姿をゆっくり眺めた。後ろの翅の黄色は、確かに角度によって真珠のように変化し、ときに緑色に輝いた。これこそが夢にまで見た構造色だ。

人生で大切なもの。それは、最初に出会った、世界の美しさ、世界の精妙さの感触を忘れないこと。そして、それを決して諦めないことではないだろうか。誰もが持っていたはずの少年少女時代の憧憬。私の場合、それはコウトウキシタアゲハの構造色の輝きだった。その宝石の飛翔をこの手に確かめたかったのだ。自分が好きなことを、好きであり続け、それを手放さないでいること。そうすれば、それ(※)は再び不意にやってくる。そしてその感動は、これから先、前半生とはまた別の新しい人生を生き直すための勇気を与えてくれるものとなる。

※注/コウトウキシタアゲハは台湾の保護蝶であり、今回の取材では、当局の許可のもと、一時的に採集したあと放蝶した。

福岡伸一(ふくおか・しんいち)
生物学者、作家。青山学院大学教授、米国ロックフェラー大学客員研究者。ベストセラーとなった『動的平衡』はじめ著書多数。科学と文化芸術の交錯する分野での著書も少なくない。

「アエラスタイルマガジンVOL.52 SPRING / SUMMER 2022」より転載

Illustration:Ayaka Otsuka
Edit:Toshie Tanaka(KIMITERASU)

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