お酒

娘の祝い。
[岸谷五朗が綴(つづ)る、男と酒の物語。]

2022.05.13

娘の祝い。<br>[岸谷五朗が綴(つづ)る、男と酒の物語。]

俳優・岸谷五朗が綴る小説に、そこからインスパイアされたビジュアルストーリーを添える本シリーズ。今回は、父と娘のデート。たおやかな時間に、互いが込めた願いとは── ?

娘の祝い。
作・岸谷五朗

今の世の中、街で待ち合わせをして人に逢(あ)う「苦労」など皆無である。昔は、ハチ公の顔と尻尾で30分も逢えなかったこともあった。携帯が現れ、結果出逢えない待ち合わせは無くなった。ましてや、Google先生が現れてからは住所や名称で現地集合が常識になった。でも今日は、あえて赤坂見附、弁慶橋で待ち合わせをした。なぜならば、何年も街を二人で歩くことなど無かったから。その頃は、私の半分ほどの小さな手をつないで歩いていた。今夜は娘とのデート、正々堂々とアルコールで乾杯できる日……。そう! 我が娘は成人を迎えた。

弁慶橋を渡りながら手を振り現れた娘。「オシャレをしてこい」と父親にプレシャーをかけられた娘が、本気を出した装いは他人のように美しかった。大学進学と共に一人暮らしを始めた時、「都内なんだからチョクチョク帰ってくるから」と言い残し二年で正月の二度しか帰ってきていない。「いろいろ忙しくて……」。気まずい時、鼻をコスる癖は小学校から変わらない。面白いから未(いま)だに指摘せず、ほっといている。

人生を酒と語り、酒と迷い、酒と決断してきた私にとって、酒はありのままを映す鏡であり、飛び越えた発想を持つ師であり、つまり「姿無き親友」だ。その親友と向き合う選び抜いた店が誰にでもある。その貴重な店に娘と来るなんて……。座ったばかりで早くも少し感傷的になってしまった。娘が二十歳、私が年寄りになるのも無理もない、と弱くなった心に言い訳した。

「ビールからでもいいのかな?」。小声で娘がきいてきた。「まずビールって、こういう店で失礼じゃないの?」「全然大丈夫だよ、飲みたい酒を飲まないほうが失礼だよ」

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成りは大人でもまだまだ可愛(かわ)いらしい娘だ。娘の小さな不安は、ソムリエが気を利かして抜栓してくれたローラン・ペリエのきめ細かな泡と共に消えた。長年通う店の「ソムリエと居心地」、これこそ長年積み立てた財産だ。娘は目を丸くして初のロゼに感動してくれた。アペタイザーから続く他にひとつとないオリジナルの料理に興奮の娘、話題探しをする必要もなく店が言葉で溢(あふ)れ呼吸し始める。美味は間違いなく人を幸せにする。

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メイン料理に私は魚、娘は肉を選んだ。併せてメルローの赤を抜栓した時、「忘れてた〜」と娘が慌てて鞄を物色。出てきたのは小さな写真立て。その中で妻が微笑(ほほえ)んでいた。「お母さん、ごめん、仲間外れにしてしまった」。祝いの夕食は三人になった。なぜだろう、浮足立っていた食事会が妻の見えない力で落ち着きに満たされるから不思議だ。妻もワイン好きだった。

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乾杯をした直後に娘がポツリと「…… 子ども産みたい」。ひと口目のワインをはきそうになった。娘が声を殺しながら笑いを堪こらえた。「焦らないでよ、今は残念ながら相手がいません」「驚かすなよ」。娘の声とダブって妻にも笑われている気がした。

「……お母さんとも、もっといたかったし、子どもがもうたくさん、十分って思うくらい、一緒に居てあげたいから……、早く産みたい」「…… そうか」「私は、足りてないからね、まだ。だから……、もっともっと長生きして」「……うん」「あ、忘れてた!」

再び鞄を物色する。出てきたのはリボンのかかった箱。「ちょっと、早いけど、誕生日プレゼント」。中身はワインレッドのネクタイ。「還暦だよ、お父さん」。すっかり忘れていた自分の歳。娘のプレゼントで主導権を握られ、成人の祝いが還暦祝いに変わってしまった。

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「還暦は新しい命の始まりなんだって。お母さん天国行って10年、お父さんも、始めていいんじゃない。二度目の人生」。私には好意を寄せてくれている女性がいた。「ほら、お母さんもじれったがっているよ。私もお父さんもニュー人生のスタート切ろうよ!」成人の祝いに娘から背中を押されるとは、まさに彼女は大人になってくれた。娘と酔って歩く通い慣れていた街並みは全てが新しく、五感がその新鮮な空気に満たされ、本当に生まれ変わったようだった。

「もう少し頻繁に帰ってこいよ」「……うん、分かった」。嘘(うそ)だ。鼻をコスっている。夜の街に向かって、それぞれの新たな人生を歩きだした。

次ページ地上180mのオアシスで朝から夜までの口福。

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