週末の過ごし方
朝は詩に乗って。
藤代冥砂
2022.05.16
ぶらりと出て、ふらふら歩く。
私にとって、旅とは、そういうものだ。
行き先の遠さ近さには無頓着で、手応えのある成果や学び、見返りを求めたりもせず、へええ、とか、ほう、とか時々つぶやきながら、大方知ってしまった感のある、この惑星の表面を眺め歩くのが、単純に好きなのだ。
ささやかに感嘆し、へええ、ほう、とつぶやくのが私の旅ならば、近所や隣町をほっつき歩くことすらも、当然「旅」となる。遥か南極大陸を、ペンギンたちを横目に歩くことと、隣町クルージングは、ささやかな驚きを与えてくれる意味合いからすれば、上下はない。
確かにそうだ。ハラッパーの遺跡で風に吹かれて動く心と、居合わせた町の夕刻、コンビニの前で見知らぬ親子とすれ違う瞬間に動く心とは、それらは同じ動く心として、私の前にある。
言うなら、何をして、どこにいても、日常という大雑把な平坦に浮かぶ、ちょっとした凹凸は、すべて旅体験のようなものだ、と最近つくづく思うようになった。
まあ、これは個人的旅感なのだが、こうなると私はいつも、ほとんどの時間を旅にいることになる。生きていると、生活していると、凹凸には事欠かない。これはなかなか愉快なもので、立派な娯楽だと思う。
そんなわけで、日頃から旅の最中に居続ける私だが、時には、さあ旅をしようと、意識して気持ちを入れることもある。それは、ちょっと遠くへ行こうと、それにふさわしい服やバッグや靴を選ぶような時間に似ている。
近頃、私は毎朝詩を読んでいるのだが、これがまさに日々の意識的な旅の起点となっている。そのきっかけは、立原道造さんだった。
いずれ自分専用の小屋が欲しいと願い続けている私には、定期的に小屋ブームが訪れる。
一旦ブームに入ってしまうと、その時は集中して、国内外の小屋の写真、設計図などを貪るように探して眺めるのだが、立原道造という建築家による、小さくてささやかな「ヒヤシンスの家」が理想的だなと、今のところ行き着いている。
その建築家は、東大で丹下健三さんの一つ先輩で、 24 歳で夭折している詩人としても知られている。いや、一般的には詩人としての名のほうが知られているに違いない。
私はどういうわけか、ヒヤシンスの家から入って立原道造さんの詩に向き合っている。
詩は、なんとなく紙との相性がいい気がするが、私は電子書籍のものをデバイスで読んでいる。
わが家では一番の早起きである私は、誰に頼まれたわけでもないのだが、眠気覚ましを兼ねて、洗濯やキッチンまわりの片付け、鳥と猫と犬と魚の世話などを済ませてから、バターと蜂蜜のトースト、そしてコーヒーの朝食を傍に、キッチンに据え置いてある一人掛けソファにゆったりと座って、詩を読むのだ。
キッチンには、南西に向かう二面の壁に程よい大きさの窓があり、朝日は差し込まないけれど、やわらかな明るさをキッチンに与え、そんな居心地のいい空間で、蜂蜜とバター、コーヒーの香り、そして詩に囲まれた私は、毎朝幸せに浸っている。
ワードローブから、たまにはこのシャツを着てみようと、いつか使うだろうと見込んで買っておいたものを引っ張り出す。詩を読むというのは、そういう感じに近い。
それは、大切な言葉が隠されている、という直感に導かれて購入され、読み手の家の本棚に鎮座することになったが、そのままいつまでも開かれることないままに、古書店に移ることをなんとか免れてきた本である。
さまざまな本が所狭しと並ぶ本棚にあって、詩集というのは、文鎮のようでもあり、古壺のようでもあり、もはや書籍でないような雰囲気を漂わせている。だが、ひとたび所有者の目にとまり、本棚から解放され開かれる時が来たら、それはもはや文鎮でも古壺でもなく、比類なき言葉の彫刻として泳ぎ始める。