週末の過ごし方
朝は詩に乗って。
藤代冥砂
2022.05.16
大きな凸凹を求め一編の詩と向き合う
言うまでもなく、詩は言葉によって組み立てられている。素材は木でも石でも、水素でもなく、活字化されて可視化されているけれど、本来目には映らない言葉によってできている。
目に見えない言葉というのは、ふわふわして無重力な存在のようだが、使われ方によっては、それ相応の重力を得て、人の心から心へと渡る。言葉の中でも最も重力の大きいものが、詩ではないか、と私は思う。
重いと言うのは、いたずらに深刻ということではない。真面目かもしれないが、いつも深刻なわけでもない。また楽しい詩が軽くて、深刻な詩が重いという単純なものではないが、人の心深くに届くものが、重いと言えば、重い。
私は、毎朝、心地よいキッチンのソファに浅く姿勢を正して座り、意識的に凹凸を得ようと、旅をしようと、重い言葉との出逢いにかけている。
なぜか?
きっと私の心は、実は、近頃遠くに憧れているのだと思う。日常の凹凸もいいのだが、ショベルカーで掘削され、クレーンで持ち上げられるような大きなドラマを求めているのだろう。
飛行機や大陸横断列車に乗らなくても、心は遠くへと飛ばしてみたいと願っているのだと思う。多分、そんなことだ。
毎朝、立原道造さんの詩集一冊を頭から順に読み進めている。何編読むとかは決めていない。だいたい今朝はこのくらいでいいかな、という感じが訪れる。そうしたら、気に入ったものがあれば、私はその一編をノートに写す。
ノートは私の雑記帳で、紙のものだ。予定やメモ、落書き、などに利用している小さくて分厚いノートに、立原道造さんの詩を写す。
この詩を写すというのは、とても面白い。まるで、自分が立原道造さんになって、たった今、新しい詩として最初に紙に産み落とされているような感覚が得られるからだ。
立原道造擬似体験である。たとえば、「燕の歌」という詩を写すということは、こういう一節を写すことだ。
「とほい村よ
僕はちつともかはらずに
待つている
あの頃も 今日も
あの向こうに
かうして僕と同じように
人はきつと待つて
いると」
読字だけよりも、書くことによって、立原道造がふらりと入ってきて、そして、とおい村よ、とふらふら語り始める私自身になる。
一昨日、立原道造詩集を一冊読み終えた。今は、伊東静雄詩集に取り掛かっている。
詩人の本を一冊読破するということは、慣れないと結構辛い。鈍行列車で、ちびちび旅するようなもので、日常のペースに合わない。
だが、彼らが原稿用紙にペンで産み落とした瞬間を、実際写しなぞってみると、そこには、ふらりと旅を始めて、ふらふら異国や隣町を歩いているような味わいがあるのも確かだ。
気に留まった言い回し、言葉づかい、それらをメモしても、実際に何かに使われることはまず無いのだが、目的地に向かう列車の窓から遠くに見えた家の、束の間の庭が投げる郷愁のように、心のどこかに納められて、私の一部となることは間違いない。
旅がいつも素晴らしいものを約束しないように、始めたばかりの朝の詩集読みにも、当たり外れがあるだろう。なにしろ、伊藤静雄さんは、電子書籍の推薦コーナーで真っ先に目についたというだけで選んだし、立原道造さんとて、狙いすまして選んだわけでもない。
成り行きゆえの当たり外れは仕方がない。だが、それを避けようと出発前に調べすぎたら、私の、ふらりと出て、ぶらぶら歩くという小さな流儀から外れてしまう。まあ、外れてもいいんだけどね。
さて、伊藤静雄さんは、どこへ連れていってくれるのだろう。まずは、「わがひとに与ふる哀歌」を開く。献辞には、こうある。
「古き師と少なき友に献ず」
少なき友か……。さあ、旅に出よう。
藤代冥砂(ふじしろ・めいさ)
写真家。90年代より活動をスタートさせ2003年に講談社出版文化賞受賞。小説や詩を発表し作家としての顔も持つ。住まいのある沖縄と東京を行き来している。最新刊は比嘉愛未写真集『本心』。
Illustration:Ayaka Otsuka
Edit:Toshie Tanaka(KIMITERASU