お酒
マッチと町中華!【番外編】
―ポップスとしての町中華。―
2023.04.28
歌謡曲は能に由来する「謡曲」に、洋楽の音階を邦楽に融合させ、大正期に生まれた。ブギウギ、ジャズ、ラテンやディスコサウンド、テクノなど、時代に応じて流行の音楽を採り入れ、昭和を代表する“国民の歌”となった。
マッチこと近藤真彦が歌手デビューしたのが1980年、16歳だった。前年に出演したTBS系ドラマ『3年B組金八先生』で人気がブレイクし、歌手としても活動するようになる。「野球ばかりして、スカウトされるまで演技も歌もやったことがなかった」というマッチだが、デビュー曲にかけるジャニーズ事務所の意気込みは本気だった。作詞・松本 隆、作曲・筒美京平という2大ヒットメーカーに依頼する。洋楽に精通した異才たちが手掛けた最初のシングル『スニーカーぶる〜す』は、オリコン週間チャート初登場1位を獲得。デビュー曲としてはオリコン史上初の快挙だった。
それまでもブルースの名を冠したムード歌謡と呼ばれる大人向けの曲はあった。この作品もそれらに連なるように失恋の傷心と未練がモチーフだが、受ける印象はまるで異なる。スニーカーという思春期を象徴するアイテムに、“ぶるーす”というひらがな表記を組み合わせ、さらに「青春知らずさ」というフレーズからサビへ至るドラマチックな構成で、子ども以上大人未満という新しいペルソナを確立した。まさに80年代の幕開けにふさわしい等身大のアイドル像だった。その後、楽曲は筒美を中心に、詞は松本、伊達 歩(伊集院 静)などが担当し、『ブルージーンズメモリー』『ギンギラギンにさりげなく』『情熱☆熱風せれなーで』などの印象的なヒット作を生み出していく。覚えやすく、キャッチーなメロディーに加え、喉を限界まで引き絞るような歌い方はファンに強い印象とシンパシーを与えたが、これには作り手の緻密な計算もあった。
「筒美京平さんは歌い手が出せる音のギリギリのラインを持ってくるんです。僕の音域もわかっているから、その一番上でキーっとなって歌わせられました」
山下達郎は筒美とは正反対だった。マッチの音域を徹底的に調べ、最も歌いやすい音階で作曲したのが『ハイティーン・ブギ』だ。
「僕がカ・キ・ク・ケ・コが得意で、逆にサ行が苦手なことを一発で見抜きましたね。その音に合わせた曲作りをしてくれました」
まさに一流の職人たちに磨かれた原石だった。マッチ本人も周囲の意気込みに応えるべく、潔く素材に徹したといえるだろう。そこにアーティストとしての自己主張ではなく、与えられたものに最大限に応えるプロ意識があった。
「テレビ局などでは、やっぱり『しょせんアイドルなんでしょ』という視線を感じましたね。そういうのには負けるもんかと思いながらやっていました」
ただ忙しいだけだったという80年代を支えていたのは、若さゆえの情熱と反骨精神に違いない。
熱烈なファンだけでなく、特にマッチに興味のない層はいただろうし、現在もいるだろう。だが、そのヒット曲を知らない人はいない。メロディーを聴けば、たとえ80年代をリアルタイムに知らなくても、誰もがサビを口ずさめる。
「10代は勢いのままでしたが、50代になった今もしっかり歌える曲が多い。『ギンギラギンにさりげなく』も歌詞が全然幼稚じゃない。逆に『愚か者』なんかは22歳で若すぎました(笑)。今がちょうどいいんじゃないかと思えます」
中華と歌謡曲が愛される理由
中華料理は歌謡曲に似ている。歌謡曲が洋楽を巧みに採り入れて独自の進化を遂げたように、中国料理のエッセンスを自己流にアレンジして培ってきた……(続く)
近藤真彦(こんどう・まさひこ)
1964年生まれ。歌手、俳優、レーサー、レーシングチーム監督、実業家。1979年テレビドラマ『3年B組金八先生』でデビュー。1980年以降はソロ歌手として、『スニーカーぶる~す』『ギンギラギンにさりげなく』『ハイティーン・ブギ』『ケジメなさい』『愚か者』などなど、ヒット曲を多数発表。現在もコンサートやディナーショーで多くの観客を魅了し、そのスター性は健在である。
Photograph: Akira Maeda(MAETTICO)
Styling: Eiji Ishikawa(TABLE ROCK.STUDIO)
Hair & Make-up: GONTA(weather)
Text: Mitsuhide Sako(KATANA)