特別インタビュー
編集長・山本晃弘のロングインタビュー
~和光 庭崎紀代子代表取締役社長に聞く。
2023.12.21
銀座の風景といえば、誰しもが和光の時計塔をシンボルとして思い浮かべるだろう。その歴史は、服部時計店が創業した1881年にさかのぼる。いまも続く銀座4丁目の角地に初代の時計塔が完成したのは1894年。その翌年、そこに服部時計店は新店舗を構えた。1923年の関東大震災で打ちひしがれた東京の街を勇気づけるように2代目の時計塔が建てられたのは1932年、91年前のことだ。1947年に服部時計店の小売部門を継承して和光が設立され、現在に至るまで、この時計塔は銀座の顔、ニッポンの顔として在りつづけている。2022年、和光の建物はセイコーハウスと名称を変えた。そこには、世界に向けて発信していこうという明快な意志が感じられる。
その発案者でもある庭崎紀代子氏が、2023年11月に和光の代表取締役社長に就任した。セイコーウオッチのマーケティング担当としてグランドセイコーの世界戦略を担い、セイコーグループ全体のコーポレートブランディングも手がけてきた庭崎氏。ブランディングのスペシャリストとして、和光をどこに向かわせようとしているのか。ロングインタビューで、じっくりと話を聞いた。
「Q.いま、和光の新社長に就任した使命は何だと思いますか?」
山本:私自身ずっと庭崎さんとお仕事をさせていただいてきて、和光社長に就任の第一報を聞いたときに感慨深いものがありました。まず、今回の人事をお聞きになったときの感想を教えてください。
庭崎:青天の霹靂(へきれき)。え、なんでいま?という感じでした。じつは、2011年から和光の社外役員をやっていて、ここ2~3年コロナ禍の間は常勤の役員をやっていました。セイコーグループ株式会社(2022年5月にセイコーホールディングス株式会社から商号変更)の役員と兼務して、両方で常勤役員を務めていました。そういう意味では、和光には12年ほどずっと関わってきています。
山本:セイコーグループで和光の担当役員をされていただけではなかったのですね。
庭崎:直近は和光の常勤役員、最初は非常勤の役員をやらせていただいていました。非常勤のころは月に1回の取締役会で、数字を見たり、大きなことをチェックしたりという仕事でした。それがここ2~3年は、コロナ禍で銀座の小売がいちばん大変な時期に会社で何が起こっているかを前社長の石井とよく話をしていました。常勤役員として携わっていたので、和光とはこういう関わり方でいくのかなと思っていました。まさか、社長をやってくださいとなるとは思いもつきませんでした。
山本:いまのタイミングで庭崎さんが和光の社長にキャスティングされた意味は何だと思いますか? そして、セイコーグループ初の女性社長とし就任した使命は何だと読み解いていらっしゃいますか?
庭崎:まだ読み解けていないかもしれませんが、銀座にこれだけのお客さまが海外からも大勢いらっしゃって、おかげさまでここ1年は和光も非常に調子よくなってきていますので、いかにグローバルに和光を発信していけるかというのが庭崎の使命だというのは、セイコーグループの服部CEOからも言われました。
山本:まずは、グローバルに発信をしていくのがいちばん大きなミッションですね。
庭崎:ここ銀座というのは、セイコーグループの聖地でもあります。和光だけではなく、グループ全体も含めた発信をしていくのはとっても重要な役割だと思います。じつはここ数年、セイコーホールディングスの役員としてグループ全体の融合の仕事をしていました。セイコーグループの本社、セイコーウオッチ、セイコータイムクリエーションなどといった、小売と関わっているさまざまなグループ会社と連携して、ラグジュアリー領域でいかに発信していくのかが使命なのかなと思います。
山本:いまグループ交流の話が出ましたが、昨年ホテルオークラでグループ会社の皆さんが集まったパーティーがありました。庭崎さんはもちろんですが、いま社員の方たちの交流も増えていますか?
庭崎:セイコーグループの役員をしているときに、自分のチームにできるだけ事業会社の人に入ってもらっていました。和光から来ていた人、セイコーウオッチから来ていた人、いろんな事業会社と連携していくチームを意識してつくっていたかもしれません。
「Q.入社したころに描いていたキャリアビジョンは?」
山本:それは、ご自身がいままで積み上げてきたキャリアからの経験で、人事交流によって得たものがあったから、そういう方向にされているんですか?
庭崎:まさに、そうです。私は服部セイコーのジュエリー担当から仕事をスタートしました。ジュエリーは会社の本流ではありませんでしたから、特品事業部というある意味で自由闊達(かったつ)にいろいろとやれる部門でした。そこからウオッチ担当に異動したときには転職したようなもので、まったく違う仕事でした。もしかしたら、セイコーグループから和光に来たときよりも、そのときの違いのほうが大きかったかもしれません。
山本:どういうふうに違いましたか? ほかのインタビュー記事で、ウオッチ部門は男社会で「時計のことがわかっていない」という厳しいやり取りもあったと読みましたが。
庭崎:私が入社したころの服部セイコーの特品事業部では、「私たちの会社は商社である。時計以外の事業をどんどんつくらなきゃいけない」と役員から最初に言われました。アントレプレナーのような起業家精神で、新しい事業をどんどんつくりなさい。そのためには、自分たちで自由に決めていいよという懐の深さがありました。
山本:いまどきの考えを、何十年も前に提言していた会社だったのですね。
庭崎:銀座にショップをつくりたいと言ったら、土地を探してくればといった感じで、どんどん若い人たちが意見を言えて、やりたいならやってみればという感じでいろいろとやらせていただきました。輸入ジュエリーやライセンスジュエリーの仕事で、しょっちゅう海外にも行かせてもらいました。すごく楽しくて、自分でどんどんやっていいというのが当たり前だと思っていましたので、2001年にセイコーウオッチに異動したら非常に統制されたモノづくりの大きな組織で驚きました。ジュエリー担当のときには、お客さまもほぼ女性、バイヤーも女性でしたが、セイコーウオッチに異動して最初の展示会では真っ黒なスーツを着た男性しかいなくて、カルチャーショックでしたね。
山本:いまのお話からさかのぼるのですが、最初にセイコーに入社されるときには、ジュエリーをやるという担当は決まってないわけじゃないですか。そのときの庭崎さんのキャリアビジョンはどういうものだったのでしょうか? 時計が好きだったのか、どういう思いがあって入社されたのでしょう。
庭崎:そんなに長く働く気はなかったのです。2~3年楽しければいいかと思って会社に入ったのですが、楽しくていままで来てしまいました。
山本:楽しかったっていうのが、すごいなと思います。セイコーの社員の方々は、皆さん、セイコーや時計が大好きですよね。
庭崎:そうなんですよ。入社したときからそういう社風、家族的というか。派閥とか人を出し抜いてというのは、いまでもあまりないと思います。どんどんやってみなさい。おもしろいことを探してきなさい。海外でも国内でもどんどん行ってこいと言われて、いいのかなと思ってどんどんやっているうちに、楽しくなってしまいました。
「Q.これまでのセイコーグループでのキャリアで学んだことは?」
山本:そういう社風はいまも変わってないのかなと思うのですが、逆に社長に就任されて1カ月を経て、立場が変わって和光を見たり、セイコーグループを見渡したりしたときに、率直な感想とか、ここは気づいてなかったなと思うところはありますか?
庭崎:いっぱいあります。小売は初めてなんですよ。セイコーウオッチはホールセール、卸のビジネスですから。お客さまが目の前にいるというのは初めてですし、毎日いろいろなことが起こるし、売上げデータも毎日リアルに出てくるし、そういう意味では新鮮で驚きもあって、おもしろいです。
山本:確かに、日々これ体験。新しいことが起こりますよね。
庭崎:売上だけに一喜一憂していてもしようがないなと思いますが、でもやっぱり昨日何が売れたのかも気になるので、数字を見たりしますよ。それは、自分の中でも、ホールセールをやっているころとの大きな違いだと感じます。いっぽうで、グランドセイコーをずっとやってきて、何かブランドをつくっていくというのは、ある意味で全く同じです。何か小売ならではのブランドのつくり方は、少し勉強しなきゃなと思いながら、いまいろいろと考えながら見ている感じです。
山本:あらためて、これまでのキャリアを順々に質問していきます。これまでの庭崎さんのキャリアが全部、線としてつながっているとお見受けしています。宝飾部で自由闊達にやっていくところからスタートして、ウオッチでルキアの商品担当をやられて、その後、広報宣伝部の担当として長く仕事をやってこられました。例えば服部CEOが記者会見でお話しになるとき、広報宣伝部として、誰を招いて、どういうスピーチの内容で、どう発信をするかの作戦を練っていくじゃないですか。そのときに、服部CEOのマネジメントの視点を体感する経験になったんじゃないかと思うのですが。
庭崎:それは、すごく鋭い指摘です。2011年に広報担当になってから服部CEOと一緒に仕事をする機会を多くいただけたので、振り返ってみると、会えない人に会えたり、行けないところに行けたり、できないことができたりがいっぱいありました。今回の和光の社長就任の辞令は直前だったのですが、セイコーグループに出社した最後の週に、2011年から2023年までにどんなことがあったのかを書き出してみたんです。そうしたら、A4の用紙4~5枚になりました。そのひとつひとつのできごとにいろいろな失敗があれば、いい思い出もあり、ちょっとウルっときたときがあれば、感動もあって。思い出して、すごく感謝しましたね。こんな人に会えたとか、こんな場所でイベントをやれたとか、こういう経験させてもらえたとか、こんなホテルに泊まれたとか、こんなところでこういう人とご飯を食べたよねとか。それを書いていくうちに、こんなにいろいろとやらせてもらったんだと感じました。
山本:そういう体験は、グランドセイコーだったり和光だったりというブランドをつくっていくときの礎になりますよね。
庭崎:そのときはわかっていなかったとしても、それはすごくあります。
山本:連綿と続いてきた創業家一族の服部CEOと庭崎さんでは違うとは思いますが、いろいろなところに同行されたり一緒にイベントやられたりしたときの服部CEOの態度などで、こういうふうに事に処するのがいいのかと思ったことはありますか?
庭崎:もしかしたら、サラリーマンである私の常識では「えっ」と思ったことが、世の中には服部CEOがやると受け入れられるんだなというのは何度もあります。どうしても、サラリーマンは規制をかけてしまったり、やってはいけないんじゃないかと思ったり、これはトゥマッチなんじゃないかと思ったりします。そこまでやるんだと思ってやってみると、じつはそのほうがすんなりと世の中に受け入れられたりもしました。
山本:もちろん服部CEOは特別な存在ではありますが、社長というポジションになった場合の庭崎さんの発信にも同じことが求められるのではないかと思います。いままで同様に庭崎さんのインタビュー記事を書いたとしても、失礼ながら、世の中の人たちの記事の読み方が違うのかなと思います。
庭崎:ただ、やはり服部CEOは特別です。私自身が広報マンとしてやってきたポリシーとして、ブランドには中枢になる軸がないといけないなと思っていました。セイコーグループの中での軸のひとつは、やっぱり服部ファミリーだと思っていたので、必ず外にステートメントを出すときには必ず服部CEOにやってもらおうと思ってきました。そうすると、このブランドはこういうものだというのが定着して、それが背骨になると思っていましたから。出すところは絶対にここだと思っていたので、そういう意味では自分が前に出ることになったときに、逆に戸惑っています。でも、山本さんがおっしゃるとおり、服部CEOがインタビューでどういうふうに答えていたか、どういうふうに見せようとしていたのかは、この十数年間、すごく勉強させてもらいました。
山本:庭崎さんの和光社長就任のニュースで、セイコーグループで初の女性社長であると書かれていました。女性が活躍していると言われながらも、なかなか政治の世界も経済の世界も男性が多いなかで、そこに関する取材や質問も多いですか?
庭崎:すごく多いです。
山本:それは、違和感がありますか? 女性だから社長になったのではなくて、和光にフィットしているからキャスティングされたのでは、という思いはありますか?
庭崎:女性だからと言われるのは、そんなにうれしいとは思わないです。
山本:そうですよね。本当に活躍している女性って、そうなんですよ。
庭崎:まだ活躍していないかもしれないですが、そこはあんまり。今回の社長就任のプレスリリースは自分のことだから一切関わっていなくて、事前に内容をほぼ見てないんです。最後に出来上がったリリースを広報が確認してきたときに、そこに「女性初の」と書いてあって、こういうふうに書かれちゃうんだなと思いました。
山本:おそらく、活躍していらっしゃる方は、いやいや、同じ一線上でやっているし、というお考えがあるのではないかなと思いまして。
庭崎:取材で「女性初の」を質問されたときに、あまり答える中身がないんですよ。そこに関しては平常心ですし、女性だから得をしたことはあるし、損をしたこともあるし、やっぱプラマイゼロみたいなものがあります。先日ある方と話をしていて、海外ではいまどき女性活躍推進と言っているのは逆に古く見えてしまうところもあるんじゃないかと。でも日本はそこが遅れているから、やっぱりそこに注目されてしまうのもわかるよねと言われました。
山本:直接バンと言って女性だから話を聞いてもらえたように記事に書かれていたりもしますが、それって多分、人柄の問題ですから、仮に庭崎さんが男性だったとしてもできたような気もします。
庭崎:それは、わからないですけどね。もしかしたら、ちょっと怒られ方が柔らかかったかもしれないし、何か生意気を言ってもしようがないなって思ってもらえたときもあったかもしれないとは思います。でも、やっぱプラスマイナスゼロかな。
山本:なるほど。反対に若い女性の社員とか、いまからセイコーグループに就職しようと考えてらっしゃる方にとっては、チアアップになるような気がします。自分のキャリアプランとして、こうなれたらいいなという人がいるというのは。
庭崎:そうなんですかね。
山本:さきほど、セイコーで発信するときは服部CEOを打ち出すと言われていましたが、私が庭崎さんの広報マンとしての仕事でいちばん記憶に残っているのは、グランドセイコーがセイコーから独立した2017年にバーゼルワールド(ウォッチフェア)の会場で海外プレス向けに発表された動画です。100年以上の歴史があると誇っている海外の時計ブランドはいっぱいありますが、途中でブランドが途絶えたり、ラグジュアリーブランドのグループ傘下に入ったりしたところがたくさんあります。同じ一族でずっと経営しているブランドはいくつかしかないなかで、セイコーはそのひとつです。服部CEOが幼かったころの家族写真を使ったバーゼルで見た動画は、それを見事に表現していました。そのストーリーはやっぱりセイコーグループの持ち味でもあるし、そして、和光がもともと服部時計店の場所だったっていうのは、すごく価値がありますよね。
庭崎:それは、先人たちがすごいなと思います。創業者である服部金太郎翁がここにこの建物を、時計塔をつくって、いまも残っているわけですから、すごい英断です。
山本:関東大震災が起こったときに銀座に時計塔をつくって世の中を勇気づけようっていうセイコーの姿勢は、ずっと続いていますよね。コロナ禍のときに時計塔から銀座に鐘の音を届けたり、メッセージ広告やウインドーディスプレイをつくられたり。
庭崎:たぶん、コロナ禍でそういった取り組みをやったときにどう思っていたかはわからないですが、社会のため、世の中のためというのは、セイコーのなかにDNAとしてあったと思います。この2代目の時計塔が、この街に91年間にわたって鐘を鳴らしつづけています。それも正確に鳴らしつづけたいという、機械式から始まってクオーツになり、次はGPSだという、本当にiPhoneを見ていると、時打ちの鐘が鳴った瞬間にぴったり合っている。ここまでやるんだという会社のDNAがあって、街の人たちに時間を知らせ続けているのはすごいなぁと思います。
「Q.コロナ禍で和光とウインドーに掲げたエモーショナルなメッセージの意味は?」
山本:コロナ禍の2020年6月にウインドーに出した「時はあなたが刻む」のメッセージは、新聞広告と連動していました。あれは、最初からウインドーに掲げることありきで進んでいたのですか?
庭崎:山本さんは、早い段階でウインドーのメッセージを見てくれたんですよね。
山本:和光の前を通って見た瞬間に感動して、撮影してSNSにアップしました。
庭崎:じつは、あれ1カ月ぐらいで作ったんですよ。広告会社の電通のクリエイティブの人たちと、カチッと合った瞬間でした。若い女性のコピーライターがメッセージを書いて、全体ディレクションは男性のアートディレクターにやってもらって。1カ月しかないなかで、あれがボンと出てきた瞬間にすごいグッときてしまって、それでウインドウのディスプレイもやったように記憶しています。時の記念日のためにウインドウをあけていたのかも。ちょっと定かではないけれど、そうだったと思います。
山本:庭崎さんは、けっこうエモーショナルな人ですよね。
庭崎:山本さんには、自分がぐっときているところを、何回も何回も見られちゃっています。ちょっと涙ぐんでいたよねとか、いますごくぐっときていたよねと言われるようなところをいつも見られちゃっていて……。
山本:いや、気持ちがわかるわけです。私たちも日本のプレスとして取材に行っていて、ブースが移転改装となったときに、どうなるのだろうと思っていて、いい場所を確保できたとなったら「よし」と思いますし。さきほどお話ししたグランドセイコー発表会で服部ファミリーの動画が流れて海外のプレスがウォーとどよめいた瞬間に、日本を代表してセイコーが世界に挑んで認められたなと感じるわけです。そして、それを準備した庭崎さんをはじめとするセイコー広報チームの苦労を思うと、一緒になってウルっときてしまいました。
庭崎:本当に、いつも山本さんには見られちゃっていたなと思います。
山本:2013年にバーゼルワールドの展示ブースが2階のいい場所に移転したときにも、ぐっときていましたよね。
庭崎:やっぱり、ヨーロッパ優位の腕時計の世界で、アジアのブランドというのはこういう位置づけなんだなというのを目の当たりに感じてきたわけです。展示ブースの位置が会場の1階から2階に上がるとなって、やっぱり悔しかったんです。そんななかで、いかに良い場所を取れるかというやり取りがあって、2階でもセンターとなる場所を確保できた。展示ブースのデザインも含めて一丸となって皆でやって、プレスの皆さんからも「いいブースができたね」と言っていただけて、ぐっときてしまいました。
山本:世界に発信していくものが何かを、ずっと問いつづけてこられました。その意味では、2022年6月に和光本館の建物の名称をセイコーハウスに変更されたのも、その一線上にありますよね?
庭崎:そうです。グランドセイコーのマーケティングを2~3年担当したときに、ブランドのフィロソフィーをつくるところからやっていって、あるときパラダイムシフトが起こったのを感じました。世界中の皆さんが日本を好きだ、日本に来たいという声がぐっと増えたんです。それまでは、われわれのグローバルチームもあまりメイドインジャパンと強調するのをやめようと言って、さほど打ち出してこなかったんです。だけれども、日本のモノづくりをもっと世界に誇ってもいいんではないかとなってきました。そして、技術的な価値の部分ばかりが評価されていたけれど、じつは日本の感性価値がこれからは評価されるのではないかと感じた瞬間に、銀座でこの場所で感性価値を発信するのがものすごく大事だと思って、セイコーハウスとするのを突然ひらめいたのです。雫石にグランドセイコースタジオをつくったときもそうでしたが、突然アイデアが降りてきて、やれないかなと思う瞬間があるんですよ。セイコーハウスへの名称変更を思いついたのは、夏休みの家のパソコンの前でした。その瞬間にバーッと企画書を書いたのを覚えています。
山本:すごいですね。庭崎さん、就職したときの仕事へのモチベーションと違って、夏休みであっても仕事に向かったりするんですね。
庭崎:雫石にグランドセイコースタジオをつくるときにも、会社の廊下を歩いていて、モノづくりの聖地がなければならないと突然に思ったんですよ。たまたまそのときに廊下の向こうから雫石で腕時計製造を担当している少し下の年代の人が歩いてきて、「雫石にスタジオつくりたいんだけど」と言ったら、「なに言っているんですか。でもいいかも」となって、会議室にプロジェクトチームを集めて企画書を作って始まりました。
山本:おおもとに、時計や会社に対する愛があって、それを共有したいという意志がありますよね。
庭崎:そうそう。自分ひとりでは絶対にできない。いろんな人を巻き込んでいく。このあいだセイコーグループで送別会やってもらったのですが、「イベントまみれにさせられました」とか「思い付きに巻き込まれました」とか「パッションに付き合わされました」と言ってもらいました。なにかひとりでやるよりもいろんな英知があったほうが絶対にいい。
「Q.和光はどこへ向かうのか? 庭崎さんご自身はどこに向かうのか?」
山本:人を巻き込んで発信していくときに、お客さまに直接届けられる和光の社長をやられるのは、「巻き込み力」の館としてはいちばん最適じゃないですか?
庭崎:どうなんでしょうね。それはまだ、やってみないとわからない。でも、そうかもしれません。広告を出すにしても反応がダイレクトですし。モノが売れた、売れないとか、売り場にその広告を見てきましたとか、館内を歩いていると毎日わかる。それは、ホールセールで全国紙に広告を出したけれども、どうだったかは1カ月ぐらいしないとわからないというのとは違って、リアルですよね。
山本:しかも、和光が仕掛けていくと、日本だけではなく世界中に届く可能性があるわけですよね。
庭崎:最近、皆さんにお話ししているんですか、小さいことがいいことだと考えています。例えばレストランでも、世界中にあるレストランよりも、ここに行かないとないというレストランのほうがわくわくするじゃないですか。逆に、アメリカのデパートのように、どの都市に行っても同じフォーマットのものがしっかりあるというのは商売的にはすごいビジネスモデルです。ただ、魅力度から考えると、和光がここに一店舗しかないというのは、ある意味で強みになるんじゃないかなと思います。最近では、世の中全部ではないにしろ、小さいことがいいことになっているところもある。例えば、日本の地方の酒蔵さんがおもしろいよねとか。でも、その地方まで行かないと買えませんというのがおもしろい時代になってきている。和光のグローバル化は、世界中から来ていただくことだと考えています。グランドセイコーの場合は世界に出ていくほうのグローバル化だと思うのですが、世界中から来ていただくグローバル化はまた全然違うおもしろさがあります。そのために、どういう魅力づけをしていくべきなのかを、いますごく考えています。
山本:ほかの百貨店との違い、あるいはセイコーグループでの和光の役割、銀座においての和光の役割というのは、世界から目指してお客さまが来られるというのが特徴であるわけですね。そのためには、この後どういう色付けが必要でしょうか?
庭崎:日本の価値を体験できる場所になるということでしょうね。おもてなしもそうかもしれないし、プロダクトもそうかもしれないし、売り場のしつらえのようなところもそうかもしれない。ここでしか体験できないことがあったよねというのを、全てにおいて貫いていくのが理想ですが、ものすごく難しいとは思います。
山本:オリジナルの洋服を提案されたり、あるいはモノづくりを見られるアトリエをつくられたりというおもしろい仕掛けをやっていらっしゃいます。百貨店が正しいのか十貨店が正しいのか、モノが多過ぎるんじゃないかという問い掛けもあると思います。そうしたなかで、和光は何に力を入れていくのでしょうか? 例えば、ファッションでとか、腕時計でといったイメージはありますか。
庭崎:やっぱり、元々の成り立ちとしてセイコーがやっているというのもありますので、ウオッチ&ジュエリーは力を入れたいなと思います。ただ、それだけではなくて人のライフスタイルに関わっていくものを考えると、もちろんファッションもありますし、バッグのような雑貨もありますし、家具とか、季節ごとに使う日本のアイテムとかも特徴を出せるのではないかと考えています。そういう意味で、ほかの百貨店さんと大きく違うのは、「ここは何ですか?」と問われたときに、百貨店の和光、専門店の和光、時計宝飾店の和光、高級ジュエラーの和光といろいろな形容詞で呼ばれるのですが、“WAKO”というブランドに最後はなっていくとすごくいいのなと思っています。エルメスだって、ティファニーだって、そうじゃないですか。いろいろなものを取り扱っていても、形容詞をつけては呼ばれない。それでも、そこに置かれているもののイメージがありますよね。もちろん、エルメスの真ん中には革製品があるけれども、アパレルもある。ティファニーはジュエリーだけれども、ステーショナリーもある。和光は真ん中にグランドセイコーをはじめとするウオッチ、そしてジュエリーがあるけれども、でも最後は“WAKO”というブランドで呼ばれるようになりたい。日本の真のラグジュアリーを体験できる“WAKO”というブランドになるというのが、ひとつの目標かもしれません。
山本:あえて、いま和光のウィークポイントはありますか?
庭崎:いっぱいあると思います。
山本:直言してしまうと、例えばお客さまの年齢層が高いとか、閉店時間が早いとか、和光が老舗であるがゆえの良さとウィークポイントが両方あると思います。ただ、それがブランディングになる可能性もあるわけじゃないですか。どのぐらいのスピードで変えていくのか、あるいは守っていくべきだと思いますか? ブランドビジネスは、変わることと守っていくことのバランスだと言われますが。
庭崎:すごく難しいですね。私は、変わるときは、ある程度変わり目がはっきり見えるほうが好きなタイプです。グランドセイコーのリブランディングで文字盤にセイコーのロゴを入れないと決めたときも、これまでの在庫はどうするのかと、店頭の商品を全部入れ替えるのかと思ってしまうのだけれども、やっぱり大局で見ると変えてよかったわけです。セイコーのロゴが入ったダイヤルの腕時計も、それで価値が出たわけですよ。和光も、必ずしもどちらかに切り替える必要はないけれども、変わったことは見えなきゃいけないのではないかなと思います。
山本:そうか、やんわりと良くなってきたじゃなくて、変わることもメッセージとして出したいと。
庭崎:古いから切り捨てるとはあまり考えたくないと思いつつ、でもメッセージとしては明確に打ち出すほうがいいのかなと、いま考えています。
山本:なるほど。仮に、和光は5時で閉めます、土日もお休みします。でも、特別にいいものがありますから急いで来てくださいと言われたら、行っちゃうかもしれない。
庭崎:メッセージですよね。さすがに、それはやらないとは思いますが。ただ、そこは意志の問題で、どういう強いメッセージを出すかがブランディングだと思います。
山本:なるほど。これまでのキャリアのいろいろな局面の話をお聞きして、首尾一貫しているなと感じます。和光がどこへ向かうのかは、いま手探りのなかで見えてきましたが、庭崎さんご自身のキャリアプランは、この後どこに向かうのでしょうか?
庭崎:入社したときと同じで、自分がどうなりたいとかは、そんなに思っていないかもしれません。やりたいことができるのがうれしいです。でも、セイコーグループの中で何がやりたかったのかと聞かれたときには、いっぱいあるけれども、世界に通用する日本を発信していくという意味では、グランドセイコーと和光がいちばん可能性があると思っていました。そういう意味では、やりたいことをやらせていただけているのかもしれません。それで、自分がそれをやった暁に、皆さんがいいねと思ってくださったら、それはうれしいかもしれません。
山本:お客さまもそうでしょうし、セイコーグループで働く若い人たちにも、これから就職する人たちにも、和光に来たことがない若い人にも、それが伝わるといいですよね。
庭崎:時計塔をミッキーマウスのデザインに模様替えしたときに、本当に多くの方がスマホで時計塔を撮影してくださいました。取り組みまでにはいろいろと紆余(うよ)曲折があったのですが、でも結果として、銀座の街がにぎわうし、お客さまがウインドーの前に群がってくださって、それをきっかけに和光にご入店いただきました。お客さまが地階のディズニーのコーナーを何重にも取り巻かれていて、やっぱりすごくうれしいなって思いますよね。和光が潤うのもあるけれど、皆さんがこのセイコーハウスを見上げてうれしそうにしているのは、セイコーのパーパスそのものというか。
山本:そうですね。服部金太郎翁が関東大震災の後にここに時計塔をつくったときもそうですし、なんだかずっと続いていますね。銀座に来てよかったとか、日本を訪ねてきてよかったとかね。
庭崎:そういう意味です。本当は、もっと商売っ気を出せよと言われるかもしれませんが、それは長い目で見るとブランディングですし、やっぱり銀座の角に何か想いを持っていただけるのは将来のブランドのためにも、すごいことじゃないかと思っています。
山本:そうか。いま、ファッションブランドの方々はエクスペリエンスが大事であると言いはじめています。商品そのものやストーリーもだけれど、その商品を着用したときに自分の人生になにが起こるかが大事だと言われるんですけど、セイコーや和光には、そういうDNAが昔からあったんですね。
庭崎:いろいろと思うことが多いですよ。歴史の流れとか、創業者の思いや考えとか、やっぱりDNAとしてつながっているんでしょうね。だからこそ、服部ファミリーが芯にあるのは、すごく意味があると私はずっと思っています。
山本:そうか、和光は“WAKO”になるということですね。それはすごいメッセージです。
庭崎:和光は“WAKO”と呼ばれたい、ですね、
山本:わかりました、ありがとうございました。
庭崎:ありがとうございます。
庭崎紀代子(にわさききよこ)
1986年、服部セイコー(現セイコーグループ)入社。宝飾部門を皮切りに、女性腕時計のルキアの商品担当、広報PR担当として活躍。セイコーウオッチ取締役・常務執行役員、セイコーホールディングス(現セイコーグループ)常務取締役、常務執行役員、和光取締役・常務執行役員などのキャリアで、広報、スポーツ・企業文化事業、コーポレートブランディング、SDGsなどを担当した後、2023年11月に和光代表取締役社長に就任。
Photograph:Sho Ueda (prismline)