週末の過ごし方

行き違う道。─ 彼の場合 ─
【Beauty in MOTION Short Short Story】

2026.04.08

行き違う道。─ 彼の場合 ─ 500_main のコピー

「いらっしゃい。あれ? 明日引っ越しじゃないの?」
「そうそう、だから挨拶(あいさつ)に寄ってみた」
「あれあれ? 結婚するのが怖くなった?」
「そんなんじゃないよ、もう」

この店には、たくさんの思い出がある。恋人でもない、友達でもない、ある女性との出会いもこの店だった。

彼女と出会ったのは、10年以上も前のこと。飼っていた猫が旅立ち、打ちひしがれて深酒をしている夜に、猫との思い出話を永遠と聞かされたのにもかかわらず、おぼつかない足取りを案じて、彼女は家まで送り届けてくれたのだ。

最初から弱みを見せたせいか、彼女とはすぐ打ち解けあい、定期的に行く温泉宿にもついてくるようになった。

免許を持っていない彼女は、宿までの車中の時間がたいそう気に入ったようで、移動時間分のプレイリストを毎回念入りに作ってきてくれた。

「会話しなくて済むからいい」なんて言っていたが、回を重ねるごとに、会話から引き出した僕のお気に入りの曲も差し込まれるようになっていった。

そして彼女は、道中で見つけた変な看板や、変わった形のビル、大きな電波塔、妙にSF感のある工業地帯や、美しい風景、気になって撮った写真を、必ず見せてくれる。

「君が見逃したおもしろいものたちだよ」と、あたかも見られな くて残念だったねと言わんばかりに、得意げな顔をして。

彼女のユーモアは少しひねくれていて、あまり自分の話をしない彼女の内面が知れるようで、毎回楽しみだった。

何もなかったわけじゃない。でも僕たちは、付き合うということをしなかった。一年に二度、ただ一緒に同じ宿に行き、同じ時間を過ごし、またお互いの日常に戻っていった。

僕に恋人ができたとき、どこかから聞いたのだろう、この店にも来なくなった。宙に浮いているような心地の良い関係が、どうにも言葉にできず、曖昧なまま消えていってしまった。

元気にしているだろうか? ふと蘇(よみがえ)る記憶に少しの罪悪感を感じながら、君の幸せを願う。

【後編】行き違う道。─ 彼女の場合 ─ は近日記事公開予定>>

「アエラスタイルマガジンVOL.60 SPRING/SUMMER 2026」より転載

作・鮎川ジュン
Illustration: Taku Bannai

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