紳士の雑学
絶望の淵で見いだした
街を変え、人を幸せにするカフェ 第2回
2017.12.15
成功は指の間からこぼれ落ちるように消えてゆき、お金を稼ぎ幸せになるという目標までも失ってしまう。そんなときに起こった阪神・淡路大震災。もう失うものはなにもない。もう一度人生を懸けてやりたいと思ったのは、飲食店だった。1995年、バルニバービ1号店は、そんな人生の転機から誕生する。のちに、大阪・南船場の静かな街の様子を一変させる店の始まりだった。
街を変えたカフェ、バッドロケーションは必然だった。
幸か不幸かそのときに、僕にはもう失うものがありませんでした。それに、借金を返すために作った会社がぎりぎりとはいえ黒字決算を続けていたので、お金を借りることができたんです。震災特別融資もあって、その年末に1号店をオープンできました。もちろん、それでもお金は足りませんから、建物の解体からセメント塗りまでぜんぶ自分たちでやりましたけどね。
その店を作ったのが大阪の南船場というところです。
大阪には北の梅田と南の心斎橋という2つの大きな繁華街があります。南船場は南の心斎橋から御堂筋を越えて7~8分くらい。
場所としてはそれほど離れているわけではありません。でも、賑わっている場所の裏側ですから、光と影の影側です。アフター6なんて誰も歩いていません。土日になるとからっぽのそれは静かな問屋街でした。
商売は人が集まる場所でしたほうがいいに決まっています。でも、当時は定期借地物件がほとんどもなかったので、土地を借りるにはとんでもない額の保証金を積まなければいけなかったんです。
僕が選んだ南船場は、心斎橋あたりと比べたら家賃が3分の1から4分の1でした。だから必然的にそういう場所を選ぶことになったんです。
けれど、鶏が先か卵が先か。ぼくはわざわざ行きたくなる店を作りたかったんです。だから世間ではバッドロケーションと思われている場所でこそやるべきだと判断したわけです。
確かに、ほんのわずか道路一本を渡ってもらうことはほんとに難しいんです。でも、そこに目的があれば渡りますよね。だから、そういう店を作ろうと。
──1995年にオープンした1号店「アマーク・ド・パラディ」は、のちに街を変えてしまうほどのインパクトを与え、22年経った現在も同じ場所でランドマーク的存在として営業を続けている。そして、この後、バルニバービは戦略的に「バッドロケーション」を選択し、店舗数を拡大していく。繁華街からは外れ、家賃は安いが実は水辺や公園など自然に恵まれた「バッドロケーション」。そんな場所に、広々とした空間やテラスを確保、サービス、食材にその分お金をかけて人気店を次々と生み出していくのだ。
今回、話を伺ったのもやはりかつてはバッドロケーションとされた蔵前の隅田川沿い。古い雑居ビルをリノベーションしたカフェレストランのテラスで、川から吹き抜ける風を頬に感じ、そびえ立つスカイツリーを望みながらのインタビューだった。
ファッションではなく、地元に育ててもらう店。
東京に進出したのは13年前ですが、最初の店は東京タワーのすぐそばでした。そのころは都会人にとって東京タワーなんて「あんなところ田舎もんが行くところ。タワーマンションから眺めるところ」って思っていたんではないでしょうか。
僕はよそ者だからか、こんな美しいタワー見上げる立地いいよなあって思いました。オープンした店は繁盛したんですが、契約の切れる5年後にはビルの引き合いも多く、逆に出ていかざるを得なくなったんです。僕らが成功して、たくさんのお客さまに来ていただけるようになったら、家賃3倍を提示されたんです。
それの悔しさもあって、今度は新しいタワー、スカイツリーの近くを探していたんです。当時は蔵前に店を出すというと「へぇ、変わってんなあ」って言われたものです。
「あんなとこ店出すところちゃう」と言われながらも歩いてみたら、浅草も近かったんですね。それに僕は京都の人間なので、この隅田川が鴨川のように感じたんです。鴨川は京都の生活のど真ん中にあります。デートをするのもランニングするのも鴨川、夏になれば川床も出るし。そんな隅田川に、屋形船が行き交うのを見て感動したのが決め手でした。提灯(ちょうちん)ぶら下げてゆったり浮かぶ船を見て「よっしゃこれや」と。
10月でしたかね、このビルの屋上で寝っ転がったんですよ。すごく気持ちのいい風が吹いて。僕ならここに来たい! と思いました。青空眺めながら不動産屋に電話して「契約するよ。今すぐ来て!」って。
──通常、企業が出店する際に重視するのは駅からの距離や人通りの数など、マーケティング。そんな常識とはまるで正反対の発想はいったいどこから生まれるのだろうか。
マーケティングから選ぶと場所が僕らの力以上の意味をもってしまうことがあるんです。たとえば、店の成功が自分たちの努力よりもビルの集客力なんかに左右されてしまう。
駅が近いからとか人が多いからとか、そういう数字から始めると依存型ビジネスになりがちなんです。やれビルが悪いだのデベロッパーが悪いだのって。僕らはそうではなく、開拓者であり、イノベーターでありたいと思っているんです。
それにね、僕らがやりたいのはトレンドを追いかけるレストランではなく、街のオアシス、食堂、カフェなんです。地元の方に育てていってもらう店ですね。
それは、スタッフたちがその街を愛し、愛され、夢をもち、その街を率いていく存在になっていくということでもあります。ただの掛け声ではなく、ここ蔵前でも祭りになればお神輿も担がしてもらっています。ここに来るのが生きがいだと、一年に400回(!)来てくれる方もおられます。
足立にある店は、岡田っていうのがやっているので、地名と名前の頭文字で「AD'ACCHIO(アダッキオ)」と言います。足立を愛しているし、その名前でまた、よその場所でやったら足立に恩返しもできますよね。
もちろんできていないこともいっぱいあります。でも、そんなふうになりたいと思って店を作っているんです。
Photograph:Shota Matsumoto
Text:Kota Shizuka