週末の過ごし方

古民家の声を聴け。
ナカムラクニオ

2023.04.20

古民家の声を聴け。<br> ナカムラクニオ

長野に古民家を借りた。諏訪大社の裏山にあって築150年以上も経っている江戸時代の家だ。徳川家康の孫で初代高遠藩主となった保科氏の親戚が代々住んでいた場所なので立派な石庭や松も植えられている。夏には家の前でホタルが飛び回り、タヌキが歩いているような里山なので、日本むかし話の主人公になったような気分にもなる。そして、月に数回は、ここに旅するように住むことにしている。いや住んでいるというほど住んでいないから、ささやかな時間旅行という感じだ。

最初は、夜が静かすぎて怖かった。裏山で鹿が鳴く声やイノシシが歩く音がたびたび聞こえる。家の中を歩くと床がミシミシと鳴り、家中に響く。建物自体が何か巨大な生命体のようにも感じるのだ。音が鳴る楽器としての建築の可能性についても考えてみたりもした。近くにコンビニはないし、テレビの電波も届かない、Wi-Fiも飛んでいない。里山では真っ暗になるとあまりやることがないことがわかった。本当は絵を描き、執筆の仕事をこなすつもりだったのだが、静かすぎて逆に集中できない。数日後、ピアノとチェロを運び込んで練習するようになった。すると奇妙なことが起きた。

風景の中に音が聞こえてきたのだ。自然の色の中にも音があるような気がしてきた。まるで『セロ弾きのゴーシュ』のように動物たちと交流しているような気分だった。その時、読んでいた本にも偶然「共感覚」のことが書いてあった。音や文字に色を感じたり、色から音を感じたりする現象のことだ。抽象画の先駆者であるカンディンスキーは、ワーグナーのオペラ『ローエングリン』を聴いて、目の前に色や線のある景色を思い浮かべる奇妙な「共感覚」を体験したことで、画家になる決心をしたという。おもしろいことに『ひまわり』を描いたゴッホも絵を始めた頃、色の使い方を研究するために、まずはピアノを習ったそうだ。そして、同時代の画家を楽器に例えた。「ミレーは、荘厳なオルガン。ドーミエは、バイオリン、ガヴァルニは、ピアノのようだ」と言ったらしい。実に興味深い。

とにかく、僕は長野に通っているうちにどうやら共感覚を身につけたようだった。ピアノの鍵盤には七色のシールを貼った。使っているチェロの音色が明るすぎるため、ストラディバリウスのような古いオイルニスに塗り替え、チョコレート色の鈍い音が出るように改造した。どんどん五感が研ぎ澄まされていく。実は、20年以上テレビのディレクターをして、無理な生活を続けていたので身体はボロボロ、味覚や嗅覚も鈍くなっていたのだ。しかし、野生の感覚が戻ってきた。どんな音も雑音ではなく情緒的に捉えられるようになってきた。大自然の息づかいを感じ、心の耳をすまして何か得体の知れない気配も感じられるようになった。霜が降りるような冷たい空気が流れる音を「自然の声」として受け入れるようにもなった。冷え冷えとした玄関にある静寂も好きになってきた。長野に旅するように住んでよかったと、しみじみ思った。

結局、旅とはある種の音楽なのだ。自然のノイズで、人を覚醒させてくれる。ささやかな音で、未知なる感覚や感性を目覚めさせる装置なのだ。そして、旅はいつだって音楽が音符の中にあるのではなく、その隙間に存在していることを教えてくれるのだ。

ナカムラクニオ
荻窪『6次元』主宰/美術家。著書は『金継ぎ手帖』『本の世界をめぐる冒険』『チャートで読み解く美術史入門』『描いてわかる西洋絵画の教科書』『洋画家の美術史』『こじらせ美術館』など多数あり、海外翻訳されたものも。

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アエラスタイルマガジンVOL.54 AUTUMN / WINTER 2022」より転載

Illustration:Koki Tsubomoto
Edit:Toshie Tanaka (KIMITERASU)

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