週末の過ごし方

追憶の先に。─ 彼の場合─
【ROAD TRIP Short Short Story】

2025.06.17

追憶の先に。─ 彼の場合─<br>【ROAD TRIP Short Short Story】

「ぜんぜん咲いてないね、桜」
「おかしいな……。開花予想ってあてにならないな」
「もしかしたらイギリスにも桜あるかもよ?」
 
ぼんやりとした春の日差しで目が覚める。やたらと広い1Kには、スーツケースとベッドが、ぽつんと置いてあるだけ。帰国してからというもの、荷ほどきに取り掛かることはなく、これからを考えるわけでもなく、ただ窓の外を見ている。毎朝聞こえるほうきの音、腕を組み散歩する老夫婦、境内への長い階段を必ず勢いよく駆け上がる子ども、ここにいる理由みたいなものを探しているのだろうか。

見下ろした先に見える桜は、僕の知っている桜ではない。ここに腰を据えると決めたくせに、幾分か色づきが豊かな故郷の桜を、恋しく思ってしまった。そうだ、それがいい、あの桜を見に行こう。

僕はまたそんな理由を見つけて、車を走らせる。

まるで僕の行き先を知っているかのように、ラジオからは懐かしい音楽ばかりが流れる。思い出に生きているつもりはなくとも、思い出に生かされている瞬間はある。

ここではないどこかへの、憧れだけで前に進めたあの頃。結局だれかの足跡をたどるだけでは、何者にもなることができなかった。未知の世界へ飛び込む僕の背中をそっと押してくれたあの子と、もう一度会いたい。

昔は自転車で息を切らしながら駆け上がっていた坂道を、車で上がっていくことに、妙な違和感を覚える。霞がかったその先に、あの桜の木は、変わらず佇(たたず)んでいた。あの時とは違って、桜は満開の時期を迎えようとしている。

いざ目の前にすると、途端にふがいなさを感じ、僕は車を降りずにニール・ヤングの『Only Love Can Break Your Heart』を聞いた。曲が終盤に差し掛かるころ、なんだか急に自分のセンチメンタルな行動が恥ずかしくなり、逃げるようにその場を去った。そして僕は、新しい何かを探しに再び走り出した。

【後編】追憶の先に。─ 彼女の場合─ は近日記事公開予定>>

「アエラスタイルマガジンVOL.58 SPRING/SUMMER 2025」より転載

作・鮎川ジュン
Illustration: Mai Endo

あなたへのおすすめ

トレンド記事

  1. 俳優・本田響矢。26歳の“今”を刻んだ写真集『ECHOES』

    俳優・本田響矢。26歳の“今”を刻んだ写真集『ECHOES』

    特別インタビュー

    2025.12.08

  2. ラムダッシュ パームイン × フラグメント<br>唯一無二の限定モデル、解禁。<br>新しいシェービング体験を日常へ。

    ラムダッシュ パームイン × フラグメント
    唯一無二の限定モデル、解禁。
    新しいシェービング体験を日常へ。

    週末の過ごし方

    2025.12.03

  3. 折りたたみ自転車が新たな境地に!<br> 「Brompton G Line」という革命。

    折りたたみ自転車が新たな境地に!
    「Brompton G Line」という革命。

    週末の過ごし方

    2025.12.01

  4. “クラフトビール沼”へようこそ!【第9回】<br>通もにやける、いま飲むべき1本を紹介。<br>「Derailleur Brew Works/TAN TAN TANNUKI」

    “クラフトビール沼”へようこそ!【第9回】
    通もにやける、いま飲むべき1本を紹介。
    「Derailleur Brew Works/TAN TAN TANNUKI」

    お酒

    2025.12.09

  5. 隠すことのできない品性<br>着崩した姿に正統の神髄が表れる。<br>【粋な男はスーツを着る。】

    隠すことのできない品性
    着崩した姿に正統の神髄が表れる。
    【粋な男はスーツを着る。】

    週末の過ごし方

    2025.12.11

紳士の雑学