週末の過ごし方
名シェフは辺境を目指す(前編)
【センスの因数分解】
2022.05.20

“智に働けば角が立つ”と漱石先生は言うけれど、智や知がなければこの世は空虚。いま知っておきたいアレコレをちょっと知的に因数分解。何やら名シェフ動向に異変アリ⁉
ここ最近、日本のレストランジャーナリズムにユニークな現象が起こっているのをご存じでしょうか? 国際的に高い評価を得ているシェフたちが、都市部から地方の、それも辺境と言えるような場所へ拠点を移しているのです。
滋賀県湖北地方は、琵琶湖エリアで最も開発を免れている地域。ひと山越えれば北陸の福井県というだけあって、冬は積雪量も多く、道路には鹿や猿、場合によっては熊も出没すると言います。そんな地域のわずか15室しかないオーベルジュ『ロテル・デュ・ラク』に、ひとりのアメリカ人シェフがたどり着きました。彼が腕を振るうレストランが4月、この小さなオーベルジュに誕生します。
名前は『SOWER』、リードするのはかつて東京・千代田区にあった『INUA』出身の、コールマン・グリフィンです。『INUA』は、世界で最も影響力を持つレストランとして知られる、デンマーク『noma』のヘッドシェフ、レネ・レゼピとの提携によって2018年に飯田橋に誕生したレストラン。2019年には二つ星に選ばれながらも、パンデミックの影響で2021年に幕を閉じました。グリフィンシェフはこの『INUA』でスーシェフとして活躍していました。
「お話をもらったときは、このデスティネーションを知りませんでしたが、訪れてみて素晴らしい所だと思いました。東京のような大都市も、湖北地方も同じ日本。東京で働いていた外国人の私が、日本の文化の奥深さを体感するべく、今度はここに身を置こうと決めたんです。東京で生活しているときは、レストランの数や情報は飽和状態、やるべきことも飽和状態という日々でした。しかし今は、湖北地方という、自然が美しく静謐(せいひつ)な、自分のやりたいことに集中できる環境の中にいます。料理人なら誰でも、最高の食材を使いたいという思いを持っています。この地で育った食材に、この地で深く関わっていく……。それは私にとって新たなチャレンジであり、いいチャンスと捉えています」


その言葉を実践するように、彼は現地の生産者を訪れ、積極的にコミュニケーションを取っているようです。たとえば、琵琶湖で伝統漁法を実践しながらも保存や輸送法を改革することで、質の高い淡水魚を提供する漁師。無農薬無化学肥料の農園、木桶で仕込む酒蔵など、知られざる場所であったこの地域で、信念を持ってものづくりを行う生産者と出会い、訪れ、土地の息吹を感じるレストランをゼロから作り上げようとしています。

「そもそもアメリカと日本では、食材の調達に大きな違いがあります。アメリカでは、食材は調達業者であるサプライヤーがどこに何があるかすべて把握していて、種類別に管理しています。ですから料理人はそこからオーダーすればいい。しかし日本では、じかにやり取りすることが求められます。生産者は扱う素材に、皆それぞれ自分の哲学を持っています。そんな人たちとコミュニケーションを重ねることで、料理やレストランへのインパクトに昇華させていきたいんです」
東京にある有名店の料理人たちも、地方各地の生産者の元を訪れ、メニューを作っていくことはあります。事実、彼が以前在籍していた『INUA』では、メニューと旅は切っても切れない関係であり、旅の感動をひと皿に落とし込むため、フィールドワークを積極的に行ってきました。しかしそれは特定の地域にフォーカスを当てたものではありません。現在グリフィンさんは、『ロテル・デュ・ラク』そして『SOWER』がある滋賀湖北地方の生産者や作家の思いを料理に閉じ込めようとしています。彼も「この地方へやって来たことを実感できるような感覚と、ここでしかできないインパクトを表現したい」と語ります。


情報や刺激過多の都市を離れ、辺境の地でその風土や生産者と向き合い、料理を提供する……。これは今、国内で同時多発的に起こっている現象ですが、日本での経験がまだ少ないグリフィンさんにとっては、ことのほか大きな試みでしょう。しかし彼はひるみません。
「アメリカ人としての自分と、地域の生産者、そしてここを訪れる人たちとの化学反応も楽しみのひとつです。それと同時に、私はこの美しい環境や地球の食糧問題に関しても、ひとりの料理人としてきちんと向き合いたいと思っています。どんなに素晴らしい食材でも、エシカルの観点で疑問があれば、地元産であったとしても選ぶことはないでしょう」
外国人として、日本の文化をより深く知るためこの地に根をおろし、世界の中の料理人として食材の背景も視野に入れながら……。かつてあの白洲正子が“かくれ里”と名づけた美しい湖畔で、若きシェフは研けん鑽さんを続けています。

Photograph: Shimpei Fukazawa